つかぬ、妙な感じに襲われて来た。そして、それからそれへと連想がつづいて、正木のお祖母さんとお墓詣りをしたことから、ついには、亡くなった母の顔までが思い出されて来るのだった。
 左側の窓の上の壁には、一間おきぐらいに大きな油絵がかかっていた。それは、すべて、郷土出身の維新当時の偉人の肖像画だった。次郎は、見るともなくそれを見ているうちに、その下に、新入生の父兄たちが、顔をずらりとならべているのに気づいた。次郎は、すばやく、その中に父の顔を見つけた。父も彼を探していたらしく、視線がすぐぶっつかった。次郎は少し顔を赧らゆて、眼をそらし、今度は右の方を見た。
 右側の壁には、軍人の写真の額が一尺おきぐらいにかかっていた。次郎は、多分学校出身の戦死者の額だろうと思い、いちいちその下に書いてある名前を見たいと思ったが、自分の位置がずっと左側になっていたので、よく見えなかった。
 やがて、型どおりの式が進んで、校長の訓辞がはじまった。
 校長は、五分刈で、顎骨の四角な、眼玉の大きい、見るからに魁偉《かいい》な感じのする、五十四五歳の人だった。いくぶん中風気味らしく、おりおり顎や手が変にふるえていたが、その大きな眼玉からは、人を射るような鋭い光が流れており、しかも、その中に、どこか人の心をひきつけるようなやさしさが漂っていた。
 次郎は、校長が壇に立った瞬間から、何かしら、気強い感じがした。
「私が本校の校長、大垣洋輔じゃ。」
 校長はまずそう言って口を切った。訓辞は、そう永くなかった。
「君らは日本の少年の中の選士である。選士に何よりも大切なのは、へりくだる心と慈悲心でなければならない。そういう心をもった人だけが、ほんとうに正しい努力をする。正しい努力をする人だけが、ほんとうに伸びる。伸びる人であってこそ真の選士といえるのだ。……傲慢な人や、無慈悲な人には正しい努力がない。そういう人は一見強そうに見えて弱いものだ。それは生命の伸びる力がとまっているからだ。君らは決してそんな人間になってはならない。学問においても心の修養においても、伸びて伸びやまない人間になってもらいたい。それでこそ日本が伸びるのだ。へりくだる心、慈悲心、そして伸びる日本。――諸君を迎える私の第一の言葉はこれである。」
 だいたいそういった意味のことであった。それでも、二三の実例をあげてわかりやすく話したので、十四五分間はかかった。そのあと校長は、父兄の方に向かって自分の教育方針を話し、それで式は終った。
「りっぱな校長先生だな。」
 式がすんで、校門を出ると、俊亮は次郎を顧みて何度もそう言った。次郎は嬉しかった。

     *

 翌日はさっそく始業式だった。
 次郎が驚いたことには、組主任の先生に引率されて講堂にはいると、新入生の坐るすぐ右側の席に、もう五年生らしい生徒が高い塀のように並んでおり、その多くが、気味のわるい眼付をして、じろりじろりと新入生たちを睨めまわしていることだった。
 次郎は、席につくと、頸をちぢめ、そっと隣の新入生にたずねた。
「僕たちの右の方に並んでいるの、五年生?」
「そうさ、五年生だよ。五年生の右が四年生で、三年生と二年生とが僕たちのうしろに並ぶんだよ。この学校では、一学期の始業式には、新入生との対面式があるんだから、いつもそうだってさ。」
 隣の新入生は、いかにも物|識《し》り顔に答えた。次郎は、なぜかいやな気がして、それっきりうつむいてばかりいた。
 やがて先生たちの顔がそろい、最後に校長がはいって来て、すぐに壇上に立った。そして、一同の敬礼をうけると、
「唯今より、二年以上の生徒と、新入学生との対面式を行う。」
 と言った。
 対面式は、べつに面倒なものではなかった。一年が右に、四年五年が左に、それぞれ向きをかえ、二年三年はそのままで、体操の先生の号令で、同時に敬礼をしあうだけだった。しかし、次郎の気持をいよいよ不愉快にしたのは、すぐ眼の前の五年生が、号令では頭を下げないで、一年生が顔をあげた頃になって、やっとばらばらに、礼を返したことだった。しかも、その顔付は、礼を返しているというよりも、あざ笑っているといった方が適当であった。
 対面式がすむと、校長の始業式の訓話が始まった。まず新入生の方を向いて、上級生に兄事する心得を説いたが、それはほんの二三分で、校長の顔はいつのまにか五年生の方を向いていた。顔が五年生の方に向くと同時に、言葉の調子も高くなり、その眼付も光って来た。そして、
「どんなわずかな力でも、それを不正なことに使ってはならない。不正なことというのは慈悲心のない行いじゃ。武士道におくれをとらないというのも、慈悲心が内にみなぎっていてはじめて出来ることで、それがなくては、武士道も何もあったものではない。よろしいか。本校の生徒は
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