った」ということは、必ずしも、彼が全く救いがたい人間になった、ということではなかったのである。
本田の家での彼は、正木にいる時とはまるで様子がちがっていた。
彼はやはり月に一度ぐらいは、正木の老夫婦にすすめられて、町に訪ねていったが、もう、お祖母さんに対しても、少しも負けてはいなかった。彼はずけずけと口答えもするし、食べたいもののありかがわかると、勝手に自分でそれを引き出して来て食べもした。そのために、お祖母さんは俊亮の前で、「末恐ろしい子」だとか、「孫にまでこんなに馬鹿にされては、生きている甲斐がない」とか、やたらに大げさな言葉をつかって、泣いたり、わめいたりするのだったが、次郎はそんな時には、わざとのように自分から二人のまえに坐って、父に叱られるのを待っているようなふうを見せた。そして、俊亮がお祖母さんの手前、何か小言めいたことを言い出すと、次郎はすぐ、
「僕、恭ちゃんや俊ちゃんの真似をしては悪いの?」
と、いかにも皮肉な調子で問い返すのだった。
俊亮は、むろん次郎のそうした態度を心から憂《うれ》えた。で、ある時、次郎だけをわざわざ散歩につれ出して、野道を歩きながら、しんみりと言いきかせたこともあった。しかし、次郎はその時も、変に真面目くさった顔をして答えた。
「でも、父さん、僕正直になる方がいいんでしょう。」
これには俊亮もあっけにとられて、つい、突っ放すように言った。
「そんなふうでは、もう誰にも可愛がってもらえないよ。」
すると次郎は、急に立ちどまって、じっと俊亮の顔を見つめていたが、
「僕、人に可愛がってもらうことなんか、きらいになっちゃったさ。」
と吐き出すように言い、さっさと一人で先に帰ってしまったものである。
お芳に対しては、彼は、まるで赤の他人に対するような冷淡さを示した。自分の方から言葉をかけることなどほとんどなく、お芳に何か言われても、極めてそっけない返事をするだけだった。そして俊三がお芳の近くにいるかぎり、彼はつとめてその場をさけようとするかのようであった。
彼の相手はいつも恭一だけだった。恭一と二人きりだと、彼の様子はほとんど以前と変りがなかった。ただ、おりおり、祖母や母に対する自分の態度の変化を誇るような口ぶりを、それとなく洩《も》らすことがあった。そして恭一がそれについて少しでも彼に忠告めいたことを言い出すと、彼はすぐ、
「僕、正直になりたいんだよ」とか、
「人に可愛がってもらったって、つまんないさ」とか、妙に力んだ調子で言って、あとは変に默りこんでしまうのだった。
彼が一番のんきな気持になれたのは、大巻を訪ねる時だった。そこでは、彼は、自分のこの頃の変な気持を示す余地をまるで与えられないかのようであった。というのは、運平老と徹太郎との、例の飄々乎《ひょうひょうこ》とした話っぷりや、高笑いが、彼の気持、というよりは、彼の存在そのものにまるで無頓着らしく思えたからである。それはちょうど、泣いている子供が、泣いていることを無視されることによって、泣きやむようなものであったのかも知れない。
もっとも、運平老にしろ、徹太郎にしろ、次郎がこのごろどんなふうだかを、お芳の口から何も聞いていないわけではなかった。お芳は元来口下手だったし、自分から進んでくわしい話をしたがるようなふうもなかったが、やはり次郎のことを苦にはしていたらしく、本田のお祖母さんの手まえ、表面だけでも俊三によけい親しんでやらなければならないということ、親しんでやっているうちに、末っ子のせいか、自分ながら不思議なほど彼に愛情を感じ出したということ、また、次郎に対しても愛情を感じないわけではないが、ついそんな事情から、しだいに気持が離れて行くような結果になり、次郎本人に対しては無論のこと、俊亮に対しても心苦しく思っているということなどを、ぼつぼつもらしていたのである。
で、大巻一家、ことに運平老と徹太郎の二人は、お芳以上にそのことを心配して、日曜ごとに次郎が訪ねて来るのを待ち、ついにその姿が見えないと、翌日は徹太郎がわざわざ本田の家に寄って、それとなく様子をさぐって来るといったふうであった。
しかし、運平老は、次郎が訪ねて来さえすれば、もうそれだけで嬉しくなってしまったというふうに見え、眼をぱちくりさして、ひょうきんなことを言い出すし、徹太郎は徹太郎で、運平老の言葉尻をとらえたり、それに調子を合わせたりして、次郎をすぐ愉快な空気の中にまきこんでしまうのであった。そして、多少でも次郎が何かにこだわるようなふうが見えると、運平老はすぐ彼に竹刀を握らせるし、徹太郎だと、登山の話をしたり、彼を田圃《たんぼ》につれ出してひっぱりまわしたりするのだった。
登山というと、徹太郎が、約束どおり、恭一と次郎とをつれて山に寝たことも何
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