度かあった。そんな時には、次郎は徹太郎をまるで友達ででもあるかのように心得て、おしゃべりもし、いたずらもした。そして、天幕を張ったり、薪を集めたりする時には、恭一とはくらべものにならないほどのすばしこさで仂いた。
 恭一と次郎とでは、登山の楽しみ方がまるで違っているように思われた。恭一はいつも考えながら歩き、おりおり手帳を出しては何か書きつけるといったふうだった。次郎は、これに反していつも棒ぎれで岩や木を叩いたり、大声を出して山彦と問答をしながら歩いた。正木や本田の家での次郎を知っている者の眼には、山に登る時の次郎は、まるで別人だと思われたかもしれない。
 もっとも、ただ一度だけ、徹太郎と恭一とを非常に心配さしたほど次郎が考えこんでしまったことがあった。それは、ある山の中腹で、弁当を食べながら、近くの大きな岩の裂目に根を張っている松の木について、三人が語りあったあとのことだった。
「君たちには、あの岩が動いているのがわかるかい。」
 徹太郎が、松の木の根元の岩を指しながら、だしぬけにたずねた。恭一と次郎とは、けげんな顔をして、その岩を見たが、岩はしんとして日光の中にしずまりかえっているだけだった。
 徹太郎は笑いながら、
「眼で見たってわからんよ、心で見なくちゃあ。」
 すると恭一がすぐ、
「ああ、そうか。」
 と言って、次郎の顔を見た。次郎は、しかし、まだきょとんとしていた。
 それから、恭一と徹太郎との間に次の問答がはじまった。
「叔父さんは、子供の時分からあの松の木を見ていたんですか。」
「うむ、見ていたとも。」
「じゃあ、その時分から岩がどのくらい動いたか、わかってるんですね。」
「どのくらい? それはわからんよ。何しろ、見たところは、私の子供のころとちっとも変っていないからね。しかし、いくらか動いたことはたしかだろう。松の木が大きくなって行くんだからね。」
「昔は、あの岩は、一つにつながっていたんでしょうね。」
「むろん、そうだろう。松の木をぬきとって両方から押しよせてみたら、今でもぴったりくっつきそうじゃないか。」
「松の木って強いもんですね。」
「うむ強い。しかし強いのは松の木ばかりではないさ。命のあるものは、何だって強いんだ。草の根でも、それがはびこると石垣を崩すことがあるんだからね。」
「ほんとうだ。」
 と恭一はしばらく考えて、
「この松の木だって、もとは草みたいなものだったんですね。」
「そうだ。最初岩の割目に根をおろした時には、指先でもふみつぶせるほどの柔いものだったんだ。それがどうだ、このとおり固い岩を真二つに割って、それをじりじりと両方に押しのけている。眼には見えないが、今でも少しずつ、押しのけているにちがいないんだ。この松の木を見たら、命というものがどんなものだか、よくわかるだろう。」
 次郎の眼は光って来た。そして、徹太郎と松の木とを等分に見くらべながら、耳をすましてきいていた。
「だが――」
 と、徹太郎はちらと次郎を見て、
「命も命ぶりで、卑怯な命は役に立たん。卑怯な命というのは、自分の運命を喜ぶことの出来ない命なんだ。……わかるかね。自分の運命を喜ぶって。」
「ええ、わかります。」と恭一が答えた。
「次郎君はどうだい、むずかしいかな。」
 次郎はちょっとまごついたが、すぐ、
「運命って、わかんないな。」と素直に答えた。
「なるほど、運命がわからんか。じゃあ境遇と言ってもいい。たとえばあの松の木だ。何百年かの昔、一粒の種が風に吹かれてあの岩の小さな裂目《さけめ》に落ちこんだとする。それはその種にとって運命だったんだ。つまり、そういう境遇に巡り合わせたんだね。そんな運命に巡り合わせたのはその種のせいじゃない。種自身では、それをどうすることも出来なかったんだ。わかるだろう。」
「わかります。」
 と次郎はちょっと眼をふせた。
「そこで、運命を喜ぶということなんだが、どうすることも出来ないことを泣いたり怨《うら》んだりしたって、何の役にも立つものではない。それよりか、喜んでその運命の中に身を任せることだ。身を任せるというのは、どうなってもいいと言うんじゃない。その運命の中で、気持よく努力することなんだ。それがほんとうの命だ。あの松の木の種には、そういうほんとうの命があった。だから、しまいには運命の岩をぶち破り。それをつきぬけて根を地の底に張ることが出来たんだ。松の木は今でも岩にはさまれたままたが、もうそんなことは、松の木にとって何でもないことになってしまったんだ。」
 次郎はふと、運平老の蘭の絵のことを思い起した。そして、お祖父さんはあの時どんな話をしたんだろう、と考えてみたが、はっきり思い出せなかった。
 それから、三人とも默りこんで、めいめいに何か考えているふうだったが、しばらくして徹太郎がま
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