と、何かをじっと見つめがちになるのだった。

    一二 考える彼

 さて、読者の中には、次郎がいつまでも同じ年頃に停滞《ていたい》しているのを、いくぶんもどかしく思っている者があるであろう。考えてみると、次郎は、母に死に別れてから、まだやっと半年を少しこしたばかりである。話の進行は、実際、のろすぎたようだ。次郎に一日も早く恋をさせたり、広い世間を見させたりしたがっている読者のためには、私は私の物語をもっと急ぐべきであったかも知れない。
 だが、誰もが知っているように、人間の「運命」の波というものは、恋をする時とか、広い世間と取っくみあう時とかばかりに、高まって来るものではない。次郎のように、まだ生まれたばかりの時に、一生のうちの頃も高い「運命」の波をくぐりぬけなければならない人も、ずいぶん多いのである。そして、私がこの物語を、単なる興味本位の小説に仕組もうとしているのでなく、次郎という一個の人間の生命を、「運命」と「愛」と「永遠」との交錯《こうさく》の中に描こうとしているかぎり、私は、この半年ばかりの彼の生活についても、そう無造作に筆を省《はぶ》くわけにはいかなかったのである。というのは、元来、継母を迎えるということは、人間の一生にとって、恋に落ちたり、広い世間の風にもまれたりすることよりも、小さな運命だとは決していえないし、ことに次郎の場合は、それがいろいろの事情とからみあって、ついに十四歳の少年としてはあまりにもむごたらしい、自己|嫌悪《けんお》にまで彼を駆《か》り立てようとしていたからである。
 だが、私としても、そういつまでも十四歳の次郎ばかりにこびりついているつもりはない。もっと成長した彼について、これから語らねはならないことも非常に多いのである。ここいらで、次郎がいよいよ中学にはいってからの話に飛んで行きたいと思うが、しかし、自己嫌悪というような、人生の重大な危機におちいりかけた彼から、一年近くも全く眼をはなしてしまうのも心もとないし、それでは、やはり、彼の「運命」を忠実に語ることにもならないと思うので、ついでに、彼が中学にはいるまでのことを、ごくかいつまんで話しておくことにしよう。
「次郎もめっきり大人《おとな》になった。」
 それがその後、正木一家の人たちが次郎について語る時の合言葉のようになっていた。むろんこの言葉の意味は単純ではなかった。その中には、「あの子も苦労をしたものだ」という燐憫《れんびん》の情や、「ともかくも変にそれなくてよかった」という安心の気持や、また時としては、「もっと子供らしいところがあってもいいのに」という遺憾《いかん》の意味やがこめられていたことは、たしかである。だが、それ以上の意味でその言葉をつかっていた者が、果してあっただろうか。
 十四歳の少年が、自分というものを一瞬も忘れることが出来ないでいる! 愛を求める自分の心に嫌悪を感じはじめている! 自己をいつわる自分の姿の醜《みにく》さにおびえて、手も足も出なくなっている! そんなことを誰がいったい想像することが出来たろう。
 自分を忘れかねている次郎の心を一層|窮屈《きゅうくつ》にしたのは、正木のお祖父さんが、おりおり考え深い眼をして、じっと彼を見つめることだった。次郎はその眼に出っくわすと、いよいよ手も足も出ない気持になったのである。次郎の記憶する限りでは、お祖父さんがそんな眼をして彼を見つめるのは何も今はじまったことではなく、彼が正木に預けられてこのかた、よくあることではあったが、このごろになって、彼はそれがとくべつ気になり出して来たのである。それがなぜだかは、彼自身にもわからなかった。彼はただ、自分が用心ぶかくなればなるはど、その眼に出っくわすことが多くなり、その眼に出っくわすことが多くなればなるほど、いよいよ用心ぶかくならないでは居れない気がするのだった。
「大人《おとな》になった」という言葉が、自然彼の耳にじかに聞えて来ることも、決してまれではなかった。そんな時には、彼は、自分が、いかにもしっかりした人間になった、と言われたような気がして、心の底でいくぶんの誇りを感じた。しかし、同時に、何か淋しい気もした。また、ほめられて喜ぶ自分の心をあざけるような気持にもなろた。彼はそうした複雑な気持をかくすために、人々のまえで、つとめて平気を装うのだった。
 こんなふうで、正木の家での彼は、表面取りたてて問題になるようなこともなかったが、それだけに、彼はいつも自己の天真をいつわり、彼自身をますます不愉快なものにしていたのである。尤も、彼がこうして自己嫌悪に似たものを感じていたとしても、それは、もともと彼の負けぎらいから来た人相手の感情でしかなく、その点では、彼はまだ何といっても子供であった。だから、正木の家で、「めっきり大人にな
前へ 次へ
全77ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング