るような気がするのだった。恭一は独りごとのように、
「僕、教えてもらえるんなら、ほんとうに稽古をしてみようかなあ。」
「絵をかい? 大巻のお祖父さんに。」
「うん。町からだと近いんだから、僕、いつでもこれるよ。」
次郎はまた默りこんだ。恭一は、しかし、今度は少しもそれを気にしなかった。そしてしきりに、大巻のお祖父さんにもっと近づいてみたいような話をした。
別れ道に来ると、恭一は立ちどまってたずねた。
「こんどは、いつ来る?」
「わかんないや。」
恭一には、それがいかにも投げやった調子にきこえた。
「町に来るの、いやなんかい。」
「…………」
次郎は眼を伏せた。
「ねえ、次郎ちゃん――」
と恭一は次郎の肩に両手をかけて、
「負けちゃあ、つまんないよ。僕たち、大巻のお祖父さんが描いた蘭になるんだ。誰にだって負けるもんか。正しい人を憎む人があったら、その人が悪いさ。僕、そんな人を軽蔑するよ。お祖母さんだって、母さんだって。」
次郎は涙ぐんでいたが、
「僕、憎まれたってもう何ともないよ。……僕、これから正直になるんだい。」
恭一は、次郎の言った言葉の前後の関係が、はっきりしなくて、ちょっと考えていた。
すると次郎は、
「さようなら。」
と、だしぬけに身を引いて、自分の行く方角にさっさと足を運び出した。
恭一は、次郎が小半町もはなれるまで、突っ立って彼を見おくっていたが、やっと気がついたように、
「さようなら!」
と叫んだ。次郎もふりかえって、もう一度、
「さようなら!」
と叫び、それから急に足を早めた。
ちらほら咲き出していた菜種の花が、うす日をうけて膚《はだ》寒い春風の中にそよいでいた。次郎にはいやにそれが淋しかった。二里あまりの道を、彼はうつむきがちに歩いた。そして考えるともなく昨日からのことを考えはじめた。
本田の家でのことを思うと、彼の気持はめちゃくちゃだった。夢中で牛鍋をつついた時の喜びでさえ、今はかえってにがい思い出でしかなかった。それにくらべて、大巻の家の空気は何という明るさだったろう。それは同じ人間の世界だとは思えないほどちがった世界で、誰も彼もが好意にあふれ、すべてが賑やかで、しかも力にあふれていた。次郎は、大巻の家のことを考えると、それがお芳とどういう関係の家であるかも忘れてしまうくらいであった。
ところで、大巻の家の楽しい思い出にまじって、彼の胸には、何か割りきれないものが残っていた。それは運平老に絵の話を聞かされたり、徹太郎に質問されて、あいまいな答えをしたりした時から、そろそろ芽を出していた感じだったが、一人になってその時のことを思うと、いよいよそれが重くるしく彼の胸をおさえつけるのだった。
これまで、彼が不快な思いをする時には、その原因はいつも周囲の人にあったが、この時だけはそうでなかった。彼は自分自身に、ある大きな物足りなさを感じはじめていたのである。
(自分は、自分を可愛がってくれる人が、なぜこんなに、ほしいのだろう。そして恭ちゃんや俊ちゃんが誰かに可愛がられているのを見ると、なぜいつもいやな気持になるんだろう。また自分は、人が正直でないと誰よりも腹が立つくせに、自分はなぜ嘘をついたり、ごまかしたりするんだろう。これが大巻のお祖父さんの言った「迷い」というのだろうか。)
(自分は卑怯なのだろうか。これまで、恭ちゃんなんかより自分の方がずっと強いと思っていたが、何だかあやしくなって来た。恭ちゃんはいつも真っ直な心で押しとおしているし、心にもないことを言ったりして、人に可愛がってもらおうとはしない。それに、このごろ恭ちゃんといっしょにいると、なぜかときどき恐いような気にさえなる。)
はっきりとではないが、彼の頭の中には、そんなような疑問が往復していた。幼年時代からの運命に培《つちか》われて来た彼の心理の複雑さが、こうして、そろそろと自覚的な仂きをみせるまでに、彼も今は成長していたのである。
饑《う》えた者が食物をつかもうとして、われを忘れて手をのばしている間は、まだ仕合わせである。だが、手をのばした自分の姿の弱さや醜さに嫌悪《けんお》を覚え、ひもじさをこらえて、じっと立ちすくんだ時のみじめさは、どうであろう。それを思うと、次郎はある意味では、これまでにない大きな不幸、しかも、周囲の人たちに同情してもらうにはあまりに底に沈みすぎた不幸に、自分自身を押しやっていたともいえるだろう。
夕雲に包まれた春の陽光は、一足ごとに鈍くなった。次郎の靴音も重かった。
ふだんなら、二里や三里は彼にとって何でもない道のりだったが、正木についた時の彼は、誰の眼にも、疲れきっているように見えた。そしてみんなが不思議がっていろいろたずねても、彼は、
「何でもないよ。」
と答えるきりで、ともする
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