れがほんとうの絵じゃ。」
「邪念って、何です。」
と、恭一がだしぬけにたずねた。その調子はいかにも真面目だった。
「うむ……」
と、運平老は、ちょっと説明に窮《きゅう》したらしく、その大きな眼玉をぱちくりさしていたが、
「邪はよこしま、念はおもいじゃ。よこしまなおもいと書いて邪念と読む。つまり迷いじゃな。人間はとかく自分に都合のよいことばかり考えて、怒ったり、悲しんだり、喜んだりする。それが迷いじゃ。心に迷いがあるとそれが絵筆に伝わって、自然に絵も下品になるのじゃ。」
次郎には、運平老の絵が上品だか下品だか、さっぱりわからなかった。学校の図画の手本のような美しい絵が描けないくせに威張っているな、という気が彼にはしていた。しかし、運平老の言った言葉は、べつの意味で妙に次郎の心にひっかかった。彼はきのうからのことを考え、「迷い」という言葉が何か自分に関係のあることのような気がしたのである。
「お祖父さんは、きょうは蘭ばかり描くんですか。」
恭一は運平老が今朝から描いたらしい何枚もの蘭の絵が、壁にピンでとめてあるのを見まわしながら、たずねた。
「うむ、今日は蘭じゃ。気持のいい蘭が出来るまでは、何枚でも描くのじゃ。」
運平老はそう言って、いま描きあげたばかりの、まだ墨の乾《かわ》かない絵を、以前のと並べて壁にとめた。その前に坐って、しばらく一心に見つめていたが、
「うむ、うむ。」
と、一人で何度もうなずき、それから、また二人の方に向き直って、
「どうじゃ、これなら文句なかろう。」
文句があるも、ないも、二人はどの絵を見ても同じ感じがするだけであった。で、返事をしないで、くすぐったそうに眼を見あわせた。すると、運平老は言った。
「蘭が一株、千仭《せんじん》の断崖に根をおろして匂《にお》っているのじゃ。よいかな、たった一株じゃぞ。その一株の下は深い谷じゃ。断崖をつとうて、すっと見おろすと、白い泡《あわ》をふいて水が流れている。流れにそうて森もあれば、畑もある。どこかに小さな人影も見えていよう。その上を鳶が輪に舞っているかも知れん。いい景色じゃ……。」
運平老は、そこでちょっと言葉を切った。そしてまた何度もうなずいてから、
「今度は上を見るんじゃ。断崖は何十丈と上の方にものびている。じゃが、もうそこには一本の木も草もない。丸裸《まるはだか》の岩がただ真青な天に食い入っているだけじゃ。白い雲が一ひらぐらいは浮いているかも知れんがの。どうじゃ、これもいい景色じゃろう。」
次郎には何のことやらさっぱりわからなかった。しかし、恭一が案外真剣な眼付をして絵に見入っているので、自分も仕方なしに、画面の天地の何も描いてない部分を、きょろきょろと見上げ見おろしていた。
運平老は今度は絵と子供たちとを等分に見比べながら、
「天地をつなぐ断崖に根をおろして、天地を支配している蘭の心には何の迷いもないのじゃ。たった一株で淋しいとも思わんし、雨風にたたかれても苦にならん。花が咲く時には花を咲かせ、枯れる時が来たら括れるまでじゃ。わしも今日はひさびさで気持のよい絵を描いた。もうこれでおしまいじゃ。」
そしていかにも愉快そうに、ひとりでうなずきながら、絵筆を筆洗にひたしていたが、
「二人とも、ようおとなしく坐っていたのう。いったい、いつ来たんじゃ。」
二人は思わず顔見合わせて笑い出した。恭一は、しかし、すぐ真顔になって、
「お祖父さんが今の絵を描きかけた時です。」
「ああ、そうだったか。で、二人で来たかの。」
「叔父さんといっしょです。」
「おう、そうそう。徹太郎はゆうべは宿直じゃったな。なるほど、きょうお前たちをつれて来る約束じゃったわい。はっはっはっ。」
運平老は、絵の世界から、やっとほんとうに自分にかえったらしかった。
そこへ、大巻のお祖母さんが二人を呼びに来たので、運平老もいっしょに茶の間に出て行き、みんなで餅菓子を頬張った。
餅菓子を頬張りながら、徹太郎はまた登山の話をはじめた。そして崖に生えている植物の採集の話をし出すと、運平老は得たりとその話をさっきの蘭の絵にもって行き、徹太郎にさっそくそれを見て来るように言った。徹太郎は、
「またお父さんの独りよがりではありませんかね。」
と、笑いながら座敷の方に立って行ったが、間もなく帰って来て、
「やっぱりあれはただの蘭ですよ。高さの感じがちっとも出ていません。あれじゃあ、庭石の横っ腹に生えた蘭だと見られても、仕方がありませんね。」
運平老は眼をくるくるさして、
「なに、庭石の横っ腹じゃと。お前のような平凡な学校の先生には、墨絵の心は到底わからん。お前よりは恭一君の方がよっぽどわかりがよさそうじゃ。」
恭一の顔がかすかに赧らんだ。
「ふ、ふ、ふ。」
と、徹太郎は悠然とあぐらをか
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