元に口をよせて何か囁いているところだった。次郎の眼は、われ知らず、それに吸いつけられた。
「どうだい、俊三。」
もう一度俊亮が促《うなが》した。俊三はやはり返事をしない。そして相変らずお芳に何か囁いている。
お芳は困ったような顔をして、何度も首を横にふっていた。
「俊ちゃん、早くしないと、恭ちゃんと二人で行っちまうよっ。」
次郎がだしぬけに叫んだ。それはいかにも怒っているような声だった。
「いいんだようっ。母さんが行かないって言うから、僕も行かないようっ。」
俊三は、鬼ごっこでもするような、ふざけた調子で答えて、ふりむきもしなかった。
次郎はこみあげて来る無念さをごま化そうとして、変な作り笑いをしたが、さっきから自分を見つめていたらしい俊亮の眼にぶっつかると、急に立ちあがって二階にかけ上った。
二階からおりて来た彼は、もう帽子をかぶっており、手には恭一の帽子まで握っていた。
「叔父さん、行きましょう。」
彼は恭一の前に帽子をつき出しながら、徹太郎をせきたてた。
「まだお茶もあげないのに、何だね、次郎。」
お祖母さんがそう言って叱ったが、彼はもうそれには頓着せず、さっさと靴をはき出した。
「お茶はもう結構です。……じゃあ、俊三君はこのつぎにするかね。」
と、徹太郎は台所の方をのぞき、すぐ俊亮とお祖母さんとに挨拶して立ち上った。お祖母さんはいかにも不機嫌そうな顔をしていた。
三人が門口を出るときには、お芳も俊三も見送って出ていたが、次郎はつとめて二人の眼を避けているようなふうだった。
「じゃあ、お宅を三時頃にはおいとまさして下さい。日が暮れると、正木で心配しますから。」
俊亮のそんな心づかいをうしろに聞きながら、次郎は真っ先に立って歩いた。彼の足はやけに早かった。そして、町はずれを出てからも、誰とも口をきかなかった。
「中学校も三年になると、ちょっと学科がむずかしくなるねえ。」
「ええ。東洋史に覚えにくい名前が出て来て困るんです。」
「武道はどちらをやってるんだい。剣道?」
「いいえ柔道です。」
「君の体では、剣道の方がよくはないかな。」
「ええ、……でも、僕、面をかぶるのが嫌いなんです。臭くって。」
「だいぶ神経質だな。……べつに何か運動をやっているんかね。」
「やりません。」
「登山はどうだい。」
「好きです。僕、ときどき一人で登ります。この辺の山だけれど。」
「一人で? そうか。しかし登山はいいね。そのうち叔父さんが高い山につれていってあげようかな。」
「ええ。」
徹太郎と恭一とが、そんな話をしているのを聞きながら、次郎はいつも一間ほど先を歩いていた。
「次郎君は、どうだい、登山は?」
次郎はそう言われて、やっと二人と肩をならべながら、
「大好きです。」
「しかし、まだあまり登ったことはないんだろう。」
「学校の遠足で二三度登ったきりです。」
「じゃあ、もう少し暖くなったら、恭一君と三人で、天幕をかついで行って、山に寝てみようね。」
次郎は眼を輝かした。徹太郎は、それからしきりに登山や露営の面白さを説き立てて、二人を喜ばした。
大巻の家までは、せいぜい一里だった。で、十時近くには、三人はもう、そのふう変りな槇《まき》の立木の門をくぐっていた。
運平老は、座敷に画仙紙をひろげて、絵を描《か》いているところだったが、恭一と次郎とが挨拶に行くと、老眼鏡を隆《たか》い鼻先にずらして、じろりと二人の顔を見た。そして、
「ほう、来たな。よし、よし。」
と言ったきり、またすぐ絵筆を動かしはじめた。
二人はちょっと手持無沙汰だった。しかし、運平老が絵を描いているのを実際に見るのは、二人ともはじめてだったので、そのまま坐って、絵筆の運びに見入っていた。
画仙紙には、えたいの知れない線や点がべたべたとなすられていた。それが見ているうちに断崖のような形になった。そしてその中程から、長い髯《ひげ》みたようなものが、くねくねと幾筋も飛出して、それがたちまち蘭になった。
蘭を描き終ると、運平老は画筆をおろして、ちょっと腕組をした。それから、今度はべつの筆をとり上げて、絵の右上の余白に一行ほど漢字を書いた。それは恭一にも次郎にもまるで読めない字だった。最後に運平老は「鉄庵居士」と書いて筆を措《お》いたが、この四字だけは、恭一にも次郎にも見覚えがあり、それが運平老の雅号《がごう》だということも以前からわかっていた。
「どうじゃ、学校の図画とはだいぶ違うじゃろう。」
運平老は、やっと眼鏡をはずして、二人の方に向きなおった。
「学校の図画、あれは形だけのものじゃ。形だけでは、ほんとうの絵にはならん。ほんとうの絵は心で描くものじゃ。心の邪念《じゃねん》をはらって絵筆を握る。すると絵筆の先から自然に自分の気持が流れ出る。そ
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