いて、餅菓子に手をのばしながら、
「恭一君、お祖父さんの説明にだまされちゃいかんぞ。説明つきの絵なんて、元来印刷物より外にはないはずだからな。」
「けしからんことを言う。水彩画や油画こそ、絵全体が説明ではないか。わしの描く墨絵には、一点の説明もありゃせん。」
「そのかわり、口で説明するんでしょう。」
「そりゃあ、素人には一応の説明をしてやらんと、絵の深さというものがわからん。説明してやっても、お前のような低能には、結局わからんがな。」
「また低能か。まあそこいらで負けときましょう。……ところで、どうだい、恭一君、君にはほんとうのところ、あの絵が高い崖に生えている蘭のように思えたのかい。」
「はじめはそんな気がしなかったんです。だけどお祖父さんの話を聞いているうちに、何だか高い崖のように思えて来ました。」
 恭一はすこぶる真面目だった。
「そうれ、どうじゃ。」
 と、運平老は得意そうに、
「恭一君は素直じゃから、話せばわかるんじゃ。」
「話せばわかるんで、話さなかったらわかりますまい。」
「いいや、素直な心があればわかるんじゃ。恭一君のような素直な心で、少し絵になれてさえ来ると、わしの話など聞かなくても、おのずとわかるようになるものじゃ。そこはお前のようなあまのじゃく[#「あまのじゃく」に傍点]とはわけがちがう。」
「今度は、あまのじゃく[#「あまのじゃく」に傍点]か。いよいよ僕の敗北らしいな。」
 徹太郎はにやにや笑いながら、次郎を見て、
「どうだい、次郎君は。君もお祖父さんの話でわかった方なのかい。」
 次郎には返事が出来なかった。彼は最初のうちは、徹太郎が運平老を冷やかしているのがばかに面白かった。むろん、彼自身も、蘭が断崖の高いところに生えているというふうには、少しも感じていなかったのである。しかし、運平老が恭一をほめ出してから、彼の気持は急に変った。そして自分の感じを率直に言うことが、何か自分のねうちを落し、運平老から離れて行く結果になりそうな気がしてならないのだった。
「いやに考えてるね。考えることなんかないだろう。お祖父さんの絵が駄目なら駄目と、思ったとおりに言うだけなんだから。」
 徹太郎にそう言われると、次郎はいよいよまごついた。そして徹太郎と運平老との顔を何度も見くらべてから、やっと答えた。
「僕、わかんないなあ。」
 答えてしまって彼はすぐ後悔した。誰の様子にもべつに変ったところはなく、ただほんの二三秒間沈默がつづいただけだったが、その沈默の間、これまでとはちがった、固《かた》い空気が、急にその場を支配したように彼は感じたのである。
「わかんないか。そいつぁ、次郎君、少しどうかしているぞ。……しかし、まあいいや。きょうは恭一君がお祖父さんの味方らしいから、名画が一枚出来たことにしておこう。」
 徹太郎はそう言って、大きく笑った。運平老も笑った。そして肩をつんといからしながら、
「誰が何と言おうと、あれだけはわしの近来の傑作じゃ。その証拠には、わしは二人がいつ座敷にはいって来たかも知らないで、無心に筆を運んでいたんじゃ。」
 それはいかにも変な論理だった。しかし、もう徹太郎には、それを攻撃の材料にする気はなかった。そして絵の話はそれでけりがついた。お祖母さんは、さっきから気乗りのしない顔をしてふたりの話をきいていたが、茶棚の置時計に眼をやって、
「おやもう十一時だよ。ご馳走は何にしようかね。」
「さあ、なるだけうまいものがいいですね。蒲鉾《かまぼこ》なら、僕、町から買って来て、戸棚にしまっておいたんです。」
「今日は大堀が干《ほ》さるんで、午《ひる》からだと小鮒と鰻が手にはいるんだがね。」
「あっ、そうそう、今日でしたね、大堀の干さるのは。じゃあ、僕行ってみましょう。もういくらか受籠《うけかご》にはいってるかも知れません。」
 徹太郎は、せき立てるように恭一と次郎とをうながして、いっしょに大堀に行った。
 大堀というのは、村で一番大きな灌漑《かんがい》用の溜池だった。この辺では、春になると溜池の水を順ぐりに川に落し、底にたまった泥を汲みあげて畑の肥料にするのだったが、今日はその大堀を干す番になっていたのである。
 三人が着いた時には、堀の上にしつらえられた二つの足場に、百姓たちが二人ずつ立って、八本の綱でつるしたいびつな桶を巧みにあやつりながら、もう泥を汲みあげているところだった。堀の底にも泥まみれになった人が五六人居り、小桶で泥水を足場の方にかきよせていたが、おりおり鰻や鯰を揃えては岸に抛《ほお》りあげていた。汲みあげられた畑の泥の中には、小鮒がぴちぴち動き、隅の方の泥のよどんだところには、もう田螺《たにし》がそろそろと這い出していた。
「受籠《うけかご》の方はどうだったい。ちっとは這入ったかね。」
 徹太
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