、恭一には小さな置時計、次郎には靴、俊三には、いつか正木の家で次郎がもらったのと同じような、文房具のつめ合わせだった。
お祖母さんはじめ、その晩はみんな上機嫌だった。ただ次郎だけは、靴を見た瞬間から、また妙に気が重くなり出した。それは、中学校に入ったら靴を買ってもらいたいというのが、お芳との前からの約束だったからである。
一〇 鋤焼
入学試験の失敗は、気づかわれたほどには、次郎の心を傷つけなかった。彼は正木に帰ってから、ひととおり周囲に顔をやぶってしまうと、案外元気に学校にも通い、遊びにも出た。それをいつまでも気にやんでいたのは、むしろ恭一の方だったらしく、自分の学年試験が目前にせまっていたにもかかわらず、しばしば次郎にあてて長い手紙を書いたりした。
源次も竜一も不合格組だった。竜一は、誰に向かっても、
「全甲の次郎ちゃんでさえうからなかったんだから、僕がうからないのはあたりまえだい。」と言った。
源次は、二度目なので、さすがに少々てれてはいたが、二三日すると、どこで覚えて来たのか、「大器晩成だよ」などと言って、けろりとしていた。
合格者は、尋六から四名、高一から二名で、十五名の受験者中、都合六名が合格したので、他校に比べて、結果は非常にいい方だった。もっとも、六名が三名になっても、決してはずれっこない、と思われていた次郎が失敗したのには、学校側としても非常に残念だったらしく、しばらくは、どの先生も次郎の顔さえ見ると、
「惜しかったなあ。」
と言った。
ただ、何とも言わなかったのは、権田原先生だけだった。先生は、次郎に対してだけでなく、どの児童に対しても、合宿を引きあげて以来、試験の成績のことなど忘れたような顔をしていた。次郎には妙にそれが嬉しかった。そして、何かといえば自分を引きあいに出して、入学試験の話をしだす先生たちや、児童たちがうるさくてならなかった。
入学試験の失敗にからんで、もっと大きな問題になったのは、次郎が四月から町の小学校に転ずるか、あるいは、もう一年正木の家に厄介《やっかい》になるか、ということであった。
これについては、俊亮と正木の老夫婦とが、いろいろ首をひねったあげく、一応、お芳の考えを訊いてみたら、ということになった。ところが、お芳にはまるで自分の考えというものがなかった。彼女は、ただ、「皆さんでおよろしいように」とか、「次郎ちゃんの好きなように」とか言うだけで、それが自分にどんなかかわりがあるかさえ考えていないかのようだった。で、結局、次郎本人の考えに任せるのが一番よかろう、ということに落ちついたが、さてそうなると、今度は次郎が非常に迷い出した。
俊亮と恭一とは、むろん、今では次郎にとって最大の魅力《みりょく》だった。お芳は、二人にくらべると、まだそれほどでもなかったが、しかし、彼女のうしろには大巻運平老がいて、不思議な力で彼の心を捉《とら》えていた。お芳にはなれていては、運平老の家を訪ねる機会もめったにない、と思うと、彼は何か淋しい気がした。しかし、そうした魅力の陰から、いつも本田のお祖母さんの冷たい眼が、彼をのぞいた。その眼を思い出すと、一も二もなく本田の家に飛び込んで行く気にもなれなかったのである。
一方、正木の家には、最近彼が恭一に対して感じはじめていたような、涙ぐましい感激の種はなかったとしても、その伸び伸びとした空気は、何といっても捨てがたいものだった。また、むろん、まるで知らない町の学校に転校なんかするよりは、これまで通いなれた学校で権田原先生の教えを受け、竜一たちを遊び仲間にしている方が、はるかにいいにきまっていた。それに、はっきり自分で意識していたわけではなかったが、故郷の自然というものが、隠微《いんび》の間に彼をひきつけていたこともたしかだった。
彼は二日も三日もそのことばかり考えつづけた。これまで、魅力のある二つの道を与えられて、自由にその一つを選んでもいいような境遇にいなかった彼だけに、そして、さほど決定を急ぐ必要もなく、少くとも一週間や十日は考えてから決めてもいいことだっただけに、彼はよけいに迷ったらしい。とうとう、彼は、自分では解決が出来なくて、卒業式の二三日前、わざわざ権田原先生の家をたずねてその意見を訊いてみた。
すると権田原先生は、如何にも無造作《むぞうさ》に答えた。
「もう一年こちらにいるさ。そして、来年は君も合宿に加わるんだね。……転校なんかすると入学試験の間際になって、また糞づまりになるかも知れんよ。はっはっはっ。」
次郎は、こうして、結局もう一年間、正木の家に厄介になることに落ちついた。むろん、それは、ついこのあいだまでは、次郎の周囲の誰の心にも予定されていなかったことなのである。だが、人生の進路における予定の役割とい
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