うものは、所詮大したものではない。予定は砂丘のように変りやすいものだし、人間の一生は、非常にしばしば、予定外の生活によって、その方向を与えられるものなのである。
だいいち「次郎のために」ということで迎えられたお芳が、その母としての生活を、次郎とべつの屋根の下で始めなければならなくなったということは、次郎にとって、何という皮肉な運命だったろう。
それは、いうまでもなく、お芳自身にとっても、――もし彼女が、「次郎のために」ということを真面目に考えて嫁いで来たとすれば、――まことに変なめぐり合わせだと感じられたにちがいない。だが、次郎にとってそれが重大な運命であったほどに、彼女にとっても重大な運命であったかは疑問である。というのは、そのことによって、自然二人の愛情が、どちらからか薄らいでゆく場合があるとして、それが次郎の方からであった場合にお芳の受ける打撃は、その反対の場合に次郎のうける打撃にくらべて、はるかに軽くてすんだであろうからだ。彼女には、次郎のほかに恭一や俊三がいた。彼女が三人のうちで最初に親しんだのが次郎であったとしても、もともと「次郎のために」ということが、周囲の人々の作為的《さくいてき》な希望であって、彼女自身の自然な心の動きから出発したものでなかったとすれば、彼女が、次郎に対して感じた以上の親しみを、恭一か俊三に対して感じないとは限らなかったのである。しかも、彼女が、その気楽な性分から、周囲の人たちのそうした期待をそう重く見さえしなければ、彼女は、次郎の代りに恭一や俊三を愛することによって、姑との間の感情を滑らかにし、彼女自身の生活を一層気楽なものにさえすることが出来たのである。
だが、次郎にとって、事柄はそう簡単なものではなかった。お芳は、今となっては、彼にとってただ一人の「母さん」であり、彼のお芳に対する思慕は、まだ十分深まっていたとは言えなかったにせよ、彼女の愛を失うことは、彼の本田における唯一の新しい希望を失うことであった。しかも、一年後、いよいよ本田に帰った場合の彼の生活は、お芳の存在によって、かえってこれまで以上のみじめなものにさえなる恐れがあったのである。
あるまじきことだ、と考える人があるかも知れない。だが、「自然」はいつも人間の「願望」よりも強い。そして、人間が「あるまじきことだ」と思うことを、しばしばあらしめるものだ。「願望」が「自然」に打克《うちか》つように見えるのは、その「願望」が「自然」に即し「自然」の流れに棹《さお》ざしている時だけなのである。お芳から次郎を遠ざけ、その代りに、恭一と俊三をいつもお芳の身辺《しんぺん》に近づけておくことが、「次郎のため」の願望を自然の流れに棹ざさせる道であったとは、決していえなかったのであろう。
「自然」の最も深いところに根を張っているはずの肉親の愛ですら、何かの不自然を敢えてすることによって、或はゆらめき、或は枯れる。意義と理性とによって、その不自然を出来るだけ自然に近づけて行くことを知らない女性において、とりわけその危険が多いのだ。それは、お民と本田のお祖母さんとにおいて、すでに十分証明されたことではなかったか。まして、お芳は、もともと不自然な、しかも、ゆさぶってみるにはまだあまりに早すぎる接穂《つぎほ》でしかなかったのである。次郎に、かつての里子の経験が、再び新しい形ではじまろうとしていたとしても、それは「あるまじきことだ」とばかりは、必ずしも言えなかったのではあるまいか。
事実を語ろう。
次郎は、入学試験後、正木に来てから約一ヵ月ぶりで、土曜から日曜にかけて、はじめて本田の家に帰って行った。その日、彼は、お芳にもらった靴をわざわざ履《は》いて行くことにしたが、靴はまだ十分に新しかった。小学校では、ふだん靴を用いることになっていなかったので、彼はその日はじめてそれを履いたようなものだったのである。
恭一や、俊三や、お祖母さんの顔にまじって彼を迎えたお芳の顔には、相変らず大きなえくぼがあった。べつだん、飛びつくように彼を迎えるふうはなかったが、正木にいっしょにいたころのお芳を知っていた次郎には、そのえくぼだけで十分だった。で、彼は、本田の家に帰って来てこれまでに感じたことのない、ある新しいあたたかさを感じながら、靴の紐をときはじめたのだった。
するとお祖母さんが言った。
「おや、今日は靴を履いて来たのかい。母さんにこないだいただいたのを、もうおろしたんだね。田舎の小学校では靴はいるまいに。」
次郎は、思わずお芳の顔を見た。お芳は、しかし、何の変った表情も見せてはいなかった。次郎は、安心したような、物足りないような変な気になりながら、上にあがった。
それから、みんなは茶の間の長火鉢のまわりに坐ったが、偶然だったのか、そうなるのが自然だ
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