れなかったので、合宿の連中といっしょに、ともかくも正木に帰る決心をし、源次と竜一とにもそのことを約束していたのだった。
ところが、試験場からの帰りに、権田原先生は、例の無表情なような、奥深いような眼をして言った。
「本田は、もう三四日こちらに残るんだそうだね。ひょっとすると、成績発表の日まで残ることになるかも知れんが、失敗していても、平気で学校に帰って来るんだぞ。落第の仲間は沢山いるんだ。」
次郎は、先生にはじめて成績のことを言われて、眼を伏せたが、それよりも、三四日こちらに残るといわれたのがいやに気になった。で、そのわけをたずねると、先生は微笑しながら、
「それは、帰ってお父さんに訊いてみると判《わか》るよ。」
と言ったきり、べつに委《くわ》しい説明をしなかった。
彼は、恭一と二人で、急いで家に帰ってみた。しかし、父は留守だった。お祖母さんに訊けばわかるだろうと思ったが、一昨夜のことが、まだ大きな壁になってのしかかっているようで、二人とも訊いてみる気がせず、そのまま二階にあがってしまった。
すると、俊三が、すぐあとからついて来て、声をしのばせながら、しかし、いかにも大仰《おおぎょう》らしく言った。
「僕たちに、母さんが来るんだってさ。」
「なあんだ、そうか。」
と次郎は、それで何もかもわかったという顔をした。恭一は、しかし、何かにうたれたように俊三の顔をみつめた。
「え? いつ? いつ来るんだい?」
「あさっての晩だって。」
「ほんと? 父さんがそう言ったんかい。」
「ううん、お祖母さんにきいたよ。」
恭一は次郎の顔を見た。次郎は、しかし、母が来るのはあたりまえだ、といったような顔をしていた。
「お祖母さんはね、――」
と、俊三はまた、声をひめて、
「そんな人、来なくてもいいんだけど、正木のお祖父さんがそう言うから仕方がないって、言ってたよ。」
今度は、次郎が眼を光らせて、恭一を見た。恭一は非常に複雑《ふくざつ》な表情をして、次郎と俊三とを見くらべた。三人は、それっきりおたがいに顔ばかり見合っていたが、恭一が、しばらくして、
「俊ちゃんは、どう? 母さんが来る方がいい? 来ない方がいい?」
「僕、どっちでもいいや。……恭ちゃんは?」
「う……うむ……」
と恭一は妙に口ごもって、
「僕だって、どっちでもいいさ。」
「次郎ちゃんは?」
と、俊三はずるそうに次郎を見た。
「僕も、どっちでもいいよ。」
次郎は、わざと平気らしく答えて、そっぽを向いた。
「だって、お祖母さんは、今度の母さん、次郎ちゃんを一等かわいがるんだって、言ってたよ。」
「…………」
次郎は、ちょっと顔を赧《あか》らめて、横目で恭一を見た。恭一も彼の方をちらと見たが、すぐ視線を俊三の方に向けて、
「そんなことないよ。……そんなこと言うの、悪いよ。」
「どうして?」
「どうしてって、はじめっから、そんなわけへだてなんかする人だって思うの、悪いよ。」
「だって、お祖母さんがそう言ったんだもの。」
「お祖母さんが言ったって、悪いさ。お祖母さんは次郎ちゃんが……」
と言いかけて、恭一は急に口をつぐみ、落ちつかない眼をして次郎を見ていたが、
「ねえ、俊ちゃん――」と調子をかえ、
「僕たちこれから、誰にでも同じように可愛がってもらうようにしようじゃないか。」
俊三はわかったような、わからないような眼をして、恭一を見た。恭一は今度は次郎に向かって、
「今度の母さん、そんなわけへだてなんかしないね、次郎ちゃん。」
「うん、……しないだろう、……きっと。」
次郎は、とぎれとぎれにそう言って、妙にくすぐったそうな顔をした。
三人は、それっきりまた默りこんで、めいめいに何か考えているらしかったが、俊三はそのうちに、つまらなそうな顔をして、ひとり階下《した》におりていってしまった。
すると、間もなく、階段の下から、
「恭一や、ちょっとおいで。」
とお祖母さんの声がきこえた。恭一は、しばらく次郎の顔色をうかがってから、しぶしぶ立って行った。
次郎は一人になったが、べつにそれが気にもならず、また、何でお祖母さんが恭一を階下に呼んだのか、そんなことは考えてみる気もしなかった。彼はいつの間にか、また入学試験のことを思い出していたのである。
(あさっての晩までは、成績の発表はない。だが、母さんが来たら、きっといろいろ訊くにきまっている。それにどう答えたものだろう。いっそ、母さんと入れちがいに、正木に帰ってしまおうか知らん。)
彼はそんなことを考えて、小半時間もひとりで机に頬杖をついていた。
しかし、恭一があまり永いこと帰って来ないので、そろそろそれが気になり出した。で、自分も階下におりてみようかと思ったが、思いきって立ち上る気にはなれなかった。階下に行け
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