同じだった。
(何だ馬鹿を見た。)
彼は心の中でそうつぶやいたが、それでも、それがひとつかたづいて、いくらか気が楽になった。そして、時間はたっぷり二十分はあまされていたのである。で、もし、腰部の要求さえ彼を邪魔しなかったら、彼はあと二間ぐらいは、確実に片づけることが出来たかも知れなかった。だが、すべては運命であった。自然の要求の切迫は、たといそれが爆発点《ばくはつてん》にまで達していなかったとしても、残された彼の時間をたえず動揺させ、彼の頭を混乱させていたのである!
鐘が鳴るまでに、彼は、残された四問のうち二問だけを、まるで芋虫が蟻に襲撃されてでもいるかのように、いらいらした気持で片づけた。それが自信のある解答でなかったことは無論である。答案を提出して試験場を出ると、彼はすぐその足で便所に走っていった。便所から出て来た時の彼は、ちょっと気ぬけがしたような気持だった。が、もうほとんど人影のない渡り廊下を、校庭の方に向かって歩いて行くうちに、何ともいいようのない無念さがこみあげて来て、ひとりでに涙がこぼれた。彼は廊下の柱に両腕をあて、顔をうずめて、しばらく動かなかった。すると、
「次郎ちゃん、こんなところにいたんか。……どうしたんだい。」
と、恭一の声がすぐうしろの方からきこえた。
「ぼ、……僕、駄目だい。」
次郎は柱によりかかったまま、息ずすりした。恭一は悲痛な顔をして、しばらくうしろから彼を見つめていたが、
「みっともないよ。それに権田原先生が待ってるじゃないか。」
次郎は、やっと涙をふいて、恭一といっしょに校庭の方にあるき出した。そして問われるままに、成績のだいたいを話した。恭一は、国語の方の成績次第では、望みがまるでないこともない、といって慰めたが、そういう恭一本人が、非常に暗い顔をしていた。
権田原先生は、校庭で児童たちに取り囲まれ、両腕を組んで二人の近づくのを無言で待っていた。
「便所に行ったんだそうです。」
と、恭一がいいわけらしく言うと、先生は、
「ふうむ……」
と、うなるように答えて次郎の顔を見、それっきり何も言わないで、つっ立っていた。それから、かなり間をおいて、
「ふむ、そうか、ふむ。……じゃあ、みんな帰ろう。」
と、さきに立って校門の方に歩き出した。
校門を出て、しばらく行くと、先生はうしろをふりかえって、
「あとは口頭試問と体格検査だけになったね。きょうは本田も合宿に遊びに来い。恭一君もどうだね、いっしょに? 午飯《ひるめし》二人分ぐらいどうにでもなるぜ。」
「でも、うちで心配しますから……」
と、恭一は次郎の顔をのぞきながら答えた。
「うむ、それもそうだね。……では、先生があとで君の家へ行くから、お父さんにそう言っといてくれ。」
恭一と次郎とは、酉福寺の門前でみんなにわかれ、家にかえって、まずそうに午飯をすますと、そのまま、人眼をさけるように二階にあがってしまった。そして、しばらくは、机に頬杖をついて、お互いに顔を見あっては、眼を伏せていたが、あとでは二人ともぽたぽたと涙をこぼしはじめた。
恭一は、そのうちに、ふいに立ちあがって、押入から二人分の夜具を引出し、それをいつものとおりひろげた。そして、
「次郎ちゃん、寝ようや。」
と、自分で先にその中にもぐりこんでしまった。
次郎は、やっと顔をあげ、恭一がのべてくれた自分の寝床をみつめていたが、急に飛びかかるように恭一の蒲団《ふとん》のうえに身を伏せた。
「僕、……来年はきっと及第するんだから、許してね。」
恭一は、返事をしないで、ふとんの中に身をちぢめた。が、しばらくたつと、顔をかくしたまま息づまるように言った。
「僕、悪かったんだよ。……ゆうべ、次郎ちゃんにいろんなことを訊《き》いたの……悪かったんだよ。」
二人は、それからかなり永いこと同じ姿勢《しせい》でいた。
しかし、そのうちに次郎もやっとあきらめたらしく、恭一の蒲団《ふとん》から身を起して、校服のまま自分の寝床にはいった。そして、二人共、さすがに疲れていたらしく、権田原先生がたずねて来て俊亮と階下で話していたのも知らないで、夕方まで眠った。
九 靴
次郎は、案外悪びれずに、翌日の口頭試験や体格検査をうけた。しかし、ほかの受験者たちが、ちょいちょい昨日の算術の試験について話しあっているのを、耳にはさんだりしているうちに、自分の駄目なことが、いよいよはっきりして来た。
彼は、くやしいというよりも、何か気ぬけがしたようなふうだった。
彼にとって何よりもつらかったのは、正木に帰って不成績を報告することだった。で、万一に望みをかけて、及第の発表をまって帰ろうかとも考えた。しかし、いよいよ受からなかった場合のことを考えると、本田に残っている気にはなおさらな
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