」
「お芳。大巻お芳だよ。……でも、正木のうちの人になったっていうから、正木お芳かなあ。」
「今度は本田お芳になるんか。……次郎ちゃんは変な気がしない。」
「ふふふ。」
次郎は笑った。彼は、しかし、はじめてお芳にあった時のことを思い出して、恭一が今どんな気持でいるかがわかるような気がした。
恭一の眼はいやに冴《さ》えていた。彼は、襖の向こうの梯子段が、かすかにきしむように思ったので、ちょっと耳をすましたが、それっきり、またしいん[#「しいん」に傍点]となった。
「次郎ちゃんは、亡くなった母さんの名を知ってる?」
「知ってるとも、お民っていうんだろう。」
二人は真暗な中で、ぽつりとそう言って、また默りこんでしまった。
恭一は、梯子段がまたきしむように思った。彼は枕からちょっと頭をもたげて、その方に注意したが、べつに人の気配はしなかった。
「ねむたくないね。」
と、次郎が言った。
「うむ、まだ九時半ぐらいだろう。だけど、もうねむった方がいいよ。」
「僕、十時に眠ればいいや。もっと話そうよ。」
「うむ――」
と恭一は生返事《なまへんじ》をしたが、すぐ、
「その人、いつごろうちに来るんかね。」
「母さんになる人?……もうすぐだろう。僕の入学試験がすんだら、すぐって言ってたから。」
「でも、次郎ちゃんは、また正木に行くんだろう。」
「そうさ。まだ卒業証書をもらわないんだもの。」
「すると、べつべつになるんかい、その人と。」
「ちょっとだよ。卒業したら、僕、またすぐここに来るんだから。」
「僕、次郎ちゃんがいないと、いやだなあ。」
「どうして?」
「次郎ちゃんがいないで、その人と話すの、何だかきまりがわるいや。」
「平気だい、そんなこと。だって、ここのお祖母さんのような意地悪なんかじゃないよ。」
恭一は默りこんだ。
次郎は、恭一に默りこまれたので、自分が何を言ったかにはじめて気がついて、はっとした。恭一にお祖母さんの悪口を言うのはいけなかったんだ。そう思うと、自分の言った言葉が、いやに耳にこびりついてはなれない。
恭一は、しかし、まもなく言った。
「次郎ちゃんは、正木にいるのが一等好きなんだろう。」
次郎は返事をしない。恭一も、強いて返事をうながすのでもなく、しばらくじっとしていたが、
「今度の母さんのうち、――大巻だったんかね、――そのうちだって、次郎ちゃ
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