は、先生の口癖だったが、次郎には、それがその時いかにも面白く響いた。で、つい笑顔になって先生の横顔を見上げた。先生の眼は、しかし、まっすぐに児童たちの方に注がれていた。
二人は、それからまたかなり永いあいだ口をきかなかった。
次郎は、児童たちのちゃんばらの真似から、ふと、大巻のお祖父さんに剣道を教わった事や、お芳を「母さん」と呼ぶようになったことなどを連想しながら、歩いていた。すると、先生は、ひょいと帽子の上から次郎の頭に手をあて、それをゆさぶるようにしながら、言った。
「本田はいろんな人に可愛がってもらって、仕合せだね。」
次郎は、これまで、自分で自分を仕合せな人間だと思ったことなど、一度だってなかった。また、周囲の人々にそんなふうに言われた覚えも、かつてないことだった。自分も周囲の人々も、自分を不幸な子供だときめてしまっているところに、自分のその日その日が成立ってでもいるかのような気持で、あらゆる場合をきりぬけて来たのが、彼の物ごころづいてからの生活だったのである。だから、彼は、権田原先生にそう言われても、変にそぐわない気がするだけだった。
「どうだい、自分ではそう思わないかね。」
と、先生は次郎の頭をもう一度ゆさぶった。次郎は顔をあげて、ちらと先生の眼を見たが、やはり返事をしなかった。
「世の中にはね――」
と、先生は次郎の頭から手をはずして、ゆっくり言葉をついだ。
「沢山の幸福にめぐまれながら、たった一つの不幸のために、自分を非常に不幸な人間だと思っている人もあるし、……それかと思うと、不幸だらけの人間でありながら、自分で何かの幸福を見つけ出して、勇ましく戦って行く人もある。……わかるかね。……よく考えてみるんだ。」
次郎には、先生の言い方が少しむずかしかった。しかし、まるでわからないというほどでもなかった。で、何度もその言葉を心のうちでくりかえしているうちに、先生が何のためにそんなことを言ったのかが、次第にはっきりして来た。彼は、乳母、父、正木一家、春子、恭一、そして最近の大巻一家と、つぎからつぎに、自分と交渉の深かった人たちのことを思いうかべてみた。そして、現在自分の不幸の原因になっている人は、けっきょく本田のお祖母さんだけだと気がついた時に、彼は、自分というものが急にまるでちがった世界におかれたような気がして、何か驚きに似たものを感じずには
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