おれなかった。
この驚きは、彼にとって決して無意味ではなかった。むろん、それは、まだ何といってもかるい知的な驚き以上には出ていなかったので、それによって、彼がはじめて母の愛を感じた時のような大きな転機を、彼に求めるわけにはいかなかった。しかし、彼の年配での、物ごとの知的理解というものは、これまでそれをくらましていた主観の雲が濃ければ濃いほど、時としては、かえって大きな力になって行くものなのである。
実際、権田原先生は、自分の予期した以上の変化を次郎の様子にみとめて、自分ながら驚いた。重かった次郎の足は、それから見ちがえるほど軽くなり、口のきき方も次第にはればれとなって来たのである。
次郎は、それからかなりたってから、だしぬけに言った。
「先生、僕、これまで、まちがっていたんです。僕、こんどはうちで恭ちゃんに教えてもらって、うんと勉強します。」
「うむ。……恭ちゃんって、君の兄さんだったね。」
「ええ、中学校の二年生です。僕と仲好なんです。」
「そりゃいいね。だが、試験間ぎわの勉強はかえってよくない。それよりか、気持を愉快にしていることだ。つまらんことで腹を立てたりしちゃいかんぞ。ひょっとして腹が立つことがあったら、すぐ合宿の方に遊びにやって来い。」
「はい。でも、僕、もう腹を立てません。」
次郎は、先生が自分のことをなにもかも知っていてくれるような気がして、うれしかった。で、彼は誓うように、はっきり答えたのである。
「そうか、うむ。……だが、君は、合宿に加われんぐらいなことで、こないだから腹を立てていたようだね。」
次郎は頭をかいた。先生は微笑しながらその様子を見ていたが、また急に真面目な顔になって、
「君を合宿に加えるのは何んでもないことさ。だが、それでは本田次郎は卑怯者になってしまう。先生は、君を卑怯者にしたくなかったんだ。正木のお祖父さんだって、先生と同じ考えにちがいない。……偉い人にはね、本田、嫌いな人間もなければ、嫌いな場所もないんだ。それは勇気があるからさ。正しい勇気さえあれば、どんなことにだってぶっつかって行ける。本田のように好き嫌いがあるのは、ちと卑怯だぞ。」
先生はまた「卑怯だぞ」と言った。そして次郎には、この時ほど先生の「卑怯だぞ」がぴんと心にひびいたことはなかった。
(そうか、先生はそんなことを考えていたんか――)
次郎は、何度も
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