乳母やに言うことがあるからさ。」
「そりゃあ。可愛いんですとも、可愛いんですとも。乳母やがこんなにおこったりするのも、坊ちゃんが可愛いからですわ。だから乳母やがおこったからって、心配することなんかありませんわ。おっしゃりたいことがあったら、何でもおっしゃい。乳母やになら、何をおっしゃっても、かまいませんよ。……どんなこと? 乳母やのまだ知らないことで、なにかきっといけないことがあるんでしょう? お祖母さんのこと? それともお母さんのこと? きっとお母さんのことでしょう? ね、そうでしょう。」
次郎は、自分の言おうとすることと、お浜のききたがっていることとが、まるであべこべなことだと知ると、出鼻をくじかれたような気持になり、しばらく默っていた。すると、またお浜が言った。
「じれったいわね、坊ちゃんは。……お鶴がいるのがいけませんの? だって、お鶴は坊ちゃんの味方じゃありませんか。乳兄弟ですもの。」
「お鶴がいたっていいさ。」
「じゃあ、早くおっしゃいね。」
「ねえ、乳母や。――」
「ええ。」
「僕の言いたいことは、乳母やの考えてるような悪いことじゃあないんだよ。」
「そう?」
「お祖母さんのことでも、母さんのことでもないんだよ。」
「そう?」
お浜は、何か拍子《ひょうし》ぬけがしたような調子だった。
「ねえ、乳母や――」
「ええ……?」
「僕は乳母やよりも偉《えら》いんだろう。偉くない?」
「乳母やより? まあ、可笑しな坊ちゃん。乳母やどころですか、ほんとうはやっぱり恭さんよりも、お父さんよりもお偉いんですよ。誰よりもお偉いですよ。」
「ほんとうにそう思ってるんかい?」
「思ってますともさ。」
「でも、僕には、乳母やが嘘ついてるように思えるんだよ。」
「どうして? さっき、あたしがあんなこと言ったからですの?」
「うむ。……乳母やには、僕、ほんとうは意気地なしに見えるんだろう。」
「そんなことあるもんですか。あの時はちょっと言ってみただけなんですよ。坊ちゃんがあんまり負けてばかりいらっしゃるようだから。」
「負けるの、意気地なしなんだろう?」
「そ……そうね、そりゃあ、ほんとうに負けたら、意気地なしですともさ。」
「だから、僕、やっぱり意気地なしだろう。偉くなんかないんだろう。乳母やはそう思ってるんだろう。」
「まあ、坊ちゃん! 坊ちゃんは、どうしてそんなにひねく
前へ
次へ
全153ページ中143ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング