という言葉が思い出された。かつて徹太郎に聞いた「運命」という言葉も顔に浮かんで来た。やはりどこかに神様というものがいて、いつも自分たちをみており、自分たちのために伺か考えているのではないか、という気もした。
 しかし、それまでは、彼の気持は、まだ割合に静かだった。彼の考えは、つぎの瞬間には、乳母やから亡くなった母のことに飛んで行ったのである。
(自分を乳母やの家に預けたのは、亡くなった母さんだったのだ。そして、母さんがもし自分を乳母やに預けていなかったとしたら乳母やは今日学校のそばを通りはしない。すると――)彼は、そう考えて、思わず大きな息をした。彼の眼には、ひさびさで、地下の母の顔がはっきり浮かんで来た。やはり、観音様に似た顔だった。笑っているようにも思えた。心配している顔のようにも感じられた。
 やがて朝倉先生の顔が母の顔にならんで現れた。するとその二つの顔が、何か自分のことについて話しあっているようにも思えて来た。
 次郎は、人間同士のつながりの広さと深さというものを、幼い頭ながらも、考えてみないわけにはいかなかった。そして、悲しいような、恐ろしいような、それでいて、何か気強いような、そしてまた楽しみなような、一種不思議な感じに包まれながら、いつの間にか、自分の家の前まで来ていた。
 門口をはいると、茶の間からきこえるかん高い話し声で、もうお浜の来ていることがわかった。
 お浜は次郎の姿を見ると、跳び上るように立って来て、彼を上り框にむかえた。お鶴も、はにかみながら、お浜のうしろに坐ってお辞俵をした。
 次郎は、しかし、さきほどからの感動から、まだ十分にはさめていなかった。彼は、何か不思議なものでも見るように、お浜を見、お鶴を見、そしてお祖母さんや、俊亮や、お芳や、俊三を見まわして、突っ立っていた。
「どうかなすったの?」
 とお浜が心配そうにたずねた。
「ううん、――」
 と、次郎はほとんど無意識に首をふった。それから、急に思い出したように、
「唯今。」
 と、みんなに挨拶して、そのまま、さっさと二階へ上って行った。
 お浜はうろたえた顔をして彼を見おくった。俊亮はちょっと厳めしい顔をした。お祖母さんはじろりとお浜とお芳の顔を見くらべた。お芳には、これといってとくべつの表情は見られなかった。そして、俊三とお鶴とは、不思議そうにみんなの顔を見まわした。
 次郎
前へ 次へ
全153ページ中133ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング