ね。」
「坊ちゃんのことでかい。」
「そうだよ。歳暮《くれ》の忙しいのに、二日も三日も子供をお邪魔さして置いたんでは、先方様に、義理が立たないとか言ってね。」
「へええ、いやに義理を気にするんだね。」
「なあに、次郎ちゃんがこちらで可愛がられていると思うと、妙に妬《や》けるんだよ。」
「まさか、お祖母さんが妬くってこともあるまいけれど……」
「いいや、本当に妬けるらしいよ。正木の家では子供を甘やかし過ぎていけないって、飯どきにさえなりゃ、そればかり言っているんだからね。」
「ご自分こそ、恭ちゃんをあんなに甘やかしているくせに。」
「全くさ。それにお祖母さんは、次郎ちゃんにこちらでいろいろ喋《しゃべ》られるのが、何より恐いらしいよ。あの子は全く嘘つきだから、何を言うか知れやしないって、一人でやきもきしているんだ。」
「まあ、呆れっちまうね。……ところで旦那様は一体どうなんだい。やっぱり坊ちゃんをいびるんじゃない?」
「そんなことあるもんか、旦那に限って。」
「でも、坊ちゃんを一人でお使いによこしたのは、旦那様だっていうじゃないの。」
「それはそうらしいね。でも、いびる気なんかまるっきりないよ。第一、お祖母さんや、奥さんとは人柄がちがってらあ。」
「どうちがってるの。」
「どうって……とにかく次郎ちゃんを心から可愛いがっているんだからね。」
「ほんとうかい。」
「ほんとうだとも。そりゃ可愛いがるよ。しかし、可愛いがっても甘やかさないところが、流石は旦那さ。」
「そうだと、私も安心だけれど……」
お浜は幾分物足りなさを感じながらも、流石に嬉しそうだった。そして、もっと直吉にいろいろ訊いてみたいこともあったので、一緒に連立って帰ることにした。
ところで、二人が正木に挨拶をすまして、いざ帰ろうとすると、かんじんの次郎の姿が何時の間にか見えなくなっていた。
「次郎ちゃん!」
「坊ちゃん!」
と、直吉とお浜とが、代る代る呼び立てた。その声に驚いたような顔をして、正木の子供たちが、ぞろぞろと蝋小屋から出て来たが、次郎の姿はその中にまじっていなかった。
しばらくの間は、お浜と直吉だけが、其処此処と探しまわっていた。
しかしいくら探しても見つからないので、捜索は次第に大袈裟になっていった。いつも子供たちが隠れん坊をして遊ぶ米倉や、櫨《はぜ》の実倉は無論のこと、納屋や、便所や、床の下まで、総がかりで検《しら》べた。隣近所にも無論たずねてみた。しかし次郎の行方は皆目《かいもく》わからなかった。
みんなは捜《さが》しあぐんで、だんだんと土間に突っ立ったり、竈《かまど》の前に蹲《しゃが》んだりしはじめた。大して心配なことはあるまい、という気持が、大抵の人の顔に現れていた。
その間を、お浜だけが、何度も裏口を出たり這入ったりして、落ちつかなかった。背戸《せど》には大きな溜池があって、蓮の枯葉が、師走の風にふるえていた。お浜は、ちょっと不吉なことを想像した。しかし、それを、口に出してまで言おうとはしなかった。
「次郎ちゃんのことだから、出しぬいて、一人で先に帰ったのかも知れない。」と、直吉が、竈の前で煙草をくわえながら言った。
「そう言えばお前さん達がそこで話しているうちに、一人で表の方へお出でなすったようだよ。」
と、姉さん被《かぶ》りの婢《おんな》が、すべての謎はそれで解けてしまうかのような顔をして言った。
今まで茶の間に坐ったまま、默ってみんなの言うことを聞いていた正木のお祖父さんは、
「ともかくも、直吉は一応帰って見るがいい。こちらはこちらで、心あたりを捜《さが》して置くからな。だが、見つかっても、見つからんでも、日暮までにはおたがいに知らせあうことにして置かんと困る。――お浜は、よかったらもう一晩泊ったらどうかの。」
お浜はちょっと思案していたが、
「私もすぐ帰らしていただきましょう。すこし思い当ることもありますから。」
「まさかお前のところに逃げて行ったんではあるまい。」
「私もまさかとは思いますが……」
そう言いながら、お浜は直吉と一緒に、そそくさと暇を告げた。
その後、捜索《そうさく》は三方で行われたが、どちらからもいい報告はなかった。日が暮れると間もなく、お浜が再び正木の家にやって来た。本田からは、九時頃になって、俊亮と、お民と、お祖母さんとが、揃ってやって来た。お民は這入って来るとすぐ、白い眼をして、じろりとお浜を見た。お祖母さんは、
「あんな小さい子を一人で使いに出したりするものですから、とうとうこんな事になりまして。……第一こちら様に相済まないことだし、それに世間様にも恥ずかしい。」と言った。
俊亮は、いつもに似ぬ沈痛な顔をして、默って正木の老人の前にかしこまった。
そのあと、彼らが何を話合い、どんな手段を講じたか。それは彼らに任しておいて、私は、読者と共に、早速次郎のあとをつけてみることにしたい。
*
実を言うと、次郎はみんなが心配するほど危険な場所に行っていたわけではなかったのである。
彼は、門口《かどぐち》を出ると母屋と土蔵との間の、かびくさい路地に這入って、暫くそこに佇《たたず》んだ。それから路を更に奥にぬけて、庭の築山のかげに出た。彼はそこで、永いこと寒い風にさらされながら、座敷の様子を窺っていたが、全く人の気配がないと見て、思い切って縁側から上って行った。そして、次の間の、客用の夜具を入れてある押入をあけて、すばやくその中にもぐりこんでしまった。
絹夜具の膚触《はだざわ》りが、いやに冷たくて気味が悪かった。おまけに、皹《ひび》の切れた手足がそれに擦れるたびにばりばりと異様な音を立てるので、彼はびくびくした。
夜具にくるまりながら、内からそっと襖《ふすま》を締めるのは、次郎にとって、かなり骨の折れることだった。が、どうなりそれをやり了《おお》せると、彼はなるだけ体を動かさない工夫をして、遠くの物音に聴耳《ききみみ》を立てた。おりおり男衆の騒いでいるらしい声がきこえて来た。しかし何を言っているのかは、まるでわからなかった。
眼が、闇に慣れるにつれて、襖の隙間《すきま》から洩れる光線が、仕切棚の裏にぼんやり扇形の模様を投げているのが見えだした。彼は一心にそれを見詰めて、その中に日の丸や、青い波や、瓢箪《ひょうたん》や、竜や、そのほか彼がこれまでに扇面で見たことのあるいろいろの画を想像してみた。
そのうちに、お浜や直吉の顔も浮かんで来た。同時に、彼がかつて直吉の肩車に乗って、その耳朶に爪を突き立てた折のことが、はっきり思い出された。
(直吉はいつも自分を迎えに来るからきらいだ。それさえなけれは嫌いではないんだが。……今日はもう帰ったか知らん。――でも、乳母やまでが一緒に帰ってしまったんではつまらない。)
そんなことを考えているうちに、夜具がいつの間にかぽかぽかと温まって来た。次郎は、その中で体がふんわりと宙に浮き上るような気持になった。そして、間もなく彼はぐっすりと眠ってしまったのである。
幾時間かの後、彼が眼をさました時には、扇形の光線など、もうどこにも見えなかった。彼は真っ暗な中で、自分が何処に寝ているかさえ、全く見当がつかなかった。寝返りを打った拍子に、足が襖に当って、ぱたりと音を立てたが、それでも彼は、自分のいる場所を急には思い出せなかった。
ところで、彼が眼をさましたのは、実のところ、ぐずぐずして居れない自然の要求が、彼の下腹部にかなり鋭く迫っていたからであった。で、彼は、自分が今何処に寝ているかを、一刻も早く知る必要があった。
彼は暗闇の中で幾度も体を捻《ひね》った。それから、そっと手を伸ばしてあたりを探ってみた。すると、その手に擦《す》れて、絹夜具がばりばりと音を立てた。その瞬間、彼の記憶が、はっきりと蘇《よみがえ》って来たのである。
しかし、記憶が蘇ってからの彼は、いよいよみじめだった。出るにも出られない。かといって、下腹部の刺激は刻一刻烈しくなるばかりである。彼は、いっそ思い切って、かつて俊三の横腹に試みた経験を、もう一度繰り返してみようかと思ったりした。しかし、それには夜具が上等過ぎて都合が悪い。しかも、此処は正木のお祖父さんの家だ。そう考えると、思い切ってやってみる気にはなれない。――次郎だって、やはり人間の子である。そう何時も良心が眠ってばかりはいない。
彼は歯を食いしばり、小さな頭を火の玉のようにして、「自然の要求」と「良心の命令」との間に苦悶《くもん》した。――一分、二分。――だが、幸いにして、解決は早くついた。
(何だ、つまらない。直吉はもうとっくにかえったはずじゃないか。)
そう気がつくと、彼は急にはね起きて、襖をがらりと開けた。
ぬりつぶしたような闇だ。
彼は両手を前に伸ばして、縁側だと思う方向に、そろそろと歩きだした。寒い。そして下腹部の要求はいよいよきびしい。
と、何に躓《つまず》いたか、彼の体は急に前にのめって、闇を泳いだ。同時に彼は、物の破壊するすさまじい音を彼の耳許で聞いた。そして、茨《いばら》の中にでも突き倒されたような痛みを覚えて、思わず悲鳴をあげた。
間もなく燈火が射《さ》して来た。大勢の人声と足音とが、その光の中に渦《うず》を巻いた。
「あっ、次郎だ!」
「まあ、坊ちゃん!」
「これはいけない、早く、早く!」
「無理しちゃいかん、そっと抱えるんだ!」
「まあ!」
「まあ!」
次郎は障子の骨を二三本ぶち抜いて、頭と両手をその向側に突き出していたのである。
「眼玉を突いてはいないでしょうか。」
「大丈夫、顔の方は大したこともなさそうだ。手首の方にちょっと大きな傷があるんだが。」
「でも、硝子《ガラス》のところでなくてよかったわ。」
「ともかく、誰か早くお医者を迎えて来なさい。」
これは正木のお祖父さんの声であった。
次郎は、手首と額とに、取りあえず白木綿を捲きつけられた。
「おや着物がぐしょぐしょになっていますが、どうなすったんでしょう。」
お浜は彼を抱えて座敷の方に運びながら言った。
「そうかな、気がつかなかった。……大方倒れたはずみに発射したんだろう。」
俊亮は、何でもなさそうに言って、笑いながら、次郎を見た。みんなも笑った。次郎はまだ泣いていた。
ただお民だけが、きっとなって俊亮を睨んだ。
それから次郎は、汚れた着物を辰男のと取りかえて貰って、しずかに蒲団に寝かされた。
医者の見立てでは、手首の傷も大したことはなかった。ただ、障子の骨が突き刺さったのだから、傷あとは案外大きく残るかも知れないと言った。
医者が帰ったのは、十二時ごろだった。
俊亮は自分から泊っていくと言い出した。お浜はお民の顔色を窺っていたが、正木の老夫婦に勧《すす》められて、これも泊ることにした。本田のお祖母さんは、「次郎を預けたまま帰ってしまってはすまないが、幾人も泊りこんではなおさらすまない。」といったような意味のことを、くどくどと繰返した。で、結局お民が一緒について帰ることになった。
次郎は、傷が痛んで、よく眠れなかった。しかし、俊亮が自分と床をならべて寝ているうえに、お浜が夜どおし枕元に坐っていてくれたので、彼にとって、さほど不幸な晩であるとはいえなかった。
一三 窮鼠
年が明けた。愛されるものにも、愛されないものにも、時間だけは平等に流れてゆく。
菜種の花がちらほら咲きそめる頃には、次郎もいよいよ学校に通い出した。彼は学校に行くのが何よりの楽しみだった。で、毎朝恭一が、みんなに何かと世話を焼いてもらっている間に、さっさと一人で先に飛び出して行くのだった。
教室は男女一しょだった。次郎は、一番前列の窓ぎわに、偶然にも、お鶴と席をならべることになった。お鶴の頬には、相変らず「お玉杓子」がくっついていた。もっとも、彼はお鶴の右側にいたので、しょっちゅうそれが眼につくわけではなかった。
授業は初めのうち午前中ですんだ。授業がすむと、二人はすぐ校番室に行って、お浜がいつも用意
前へ
次へ
全34ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング