は前より一層高くなった。お祖母さんは包みを解きながら、
「ほんとに、どうしたというんだろうね。……おや、手紙がはいってるね。まあ、お前を一人でお使いによこしたのかい。かわいそうに。」
 そこで次郎の泣き声は、また一しきり高くなった。
「もう泣くんじゃありません。さあお上り。今日は餅搗だから、面白いことがあるよ。でも一人でよく来られたね。道を間違えはしなかったかい。」
 次郎は泣きじゃくりながら、お祖母さんに手を引かれて、やっと板の間に上った。
 お祖母さんは、それから、大急ぎで、次郎のため黄粉餅《きなこもち》を作った。そして、いつになく不機嫌な顔をして、土間の男衆に言った。
「誰かすぐに本田の家に行って、次郎は無事に着いたから安心なさいって、そう言って来ておくれ。今夜はこちらに泊めて置くからってね。……ほんとにこんな子供を一人でよこして置いて、着いたか着かないかも気にかけないなんて、まるで親とは思えやしない。」
 次郎は、ひどく父が非難されているように思って、少し気がかりだった。しかし、餅搗の賑やかさが、間もなく彼にすべてを忘れさせた。そして、従兄弟たちと一緒に、夢中になって小餅を丸め始めた。

    一一 蝋小屋

 その日、次郎はむろん正木の家に泊った。そして翌日は朝から蝋小屋の中で、従兄弟達と角力《すもう》をとったり、隠れんぼをしたりして遊んだ。
 年末のせいで、蝋|搾《し》めは一|槽《そう》しか立っていなかったが、櫨《はぜ》の実を蒸す匂いは、いつものように、温かく小屋の中に流れていた。炉の中に惜しげもなく投げこまれた蝋糟《ろうかす》が、ごうごうと音を立てて、焔をあげているのも景気がよかった。
 次郎はこの家に来ると、妙に甘い空気に包まれる。
 そのせいか、ほんのちょっとした事にも、すぐ泣き出してしまう。従兄弟たちは別に意地悪をするわけでもないが、子供同士のことで、たまには口喧嘩をしたり、ぶっつかったりすることもある。そんな時に、きまって泣き出すのは、次郎の方である。それは、彼の実家でのふだんの様子を知っている者には、実際不思議なくらいだった。
 この日も、彼と同い年の辰男を相手に、炉の前に積んであった蝋糟の中で角力をとっているうちに、つい泣き出してしまった。それを年上の従兄弟たちがなだめて、やっと機嫌を直させたところへ、ひょっくり思いがけない人が這入って来た。お浜であった。
「まあ、坊ちゃん、しばらく。」
 次郎はちょっとの間、ぽかんとしてお浜の顔を見ていたが、きまり悪そうに俯向《うつむ》いて、くるりと背を向けた。
「おや、どうなすったの。」
 お浜は、次郎の前にまわって、中腰になりながら、彼の顔をのぞきこんだ。
「まあ、泣いてたようなお顔ね。」
 そう言って、彼女は次郎を抱きすくめるようにしながら、炉の前の蓆に腰をおろした。従兄弟たちは、しばらく二人の様子を珍しそうに見ていたが、間もなく、ぞろぞろと小屋を出て、何処かへ行ってしまった。
「ねえ、次郎ちゃん、あれからどうしてたの。」
 と、彼女の言葉は、二人きりになると、少しぞんざいになった。
「病気しなくって? 何だか少し痩せたようね。私、次郎ちゃんのこと、一日だって忘れたことないのよ。でも、お母さんのお許しがあるまでは、次郎ちゃんところへは伺わない約束なんですの。それでね、いつもこちらにお伺いしては、次郎ちゃんのことをお聞きしていましたのよ。でも、今日はよかったわね、お逢い出来て。……昨日いらしたってね。」
 次郎は俯向《うつむ》いたまま、かすかにうなずいた。
「でも、お一人でいらしたっていうじゃないの? 随分ひどいわねえ。母さんのお言いつけ?」
「ううん。」
「では、お祖母さん?」
「ううん。」
「では、どなた。」
「父ちゃんだい。」
「お父さん? まあ。お父さんまで、そんなことを次郎ちゃんにお言いつけになるの? はっきり嫌だとおっしゃればいいのに。お父さんだって誰だって、構うもんですか。」
「だって、僕……」
「だってじゃありませんよ。次郎ちゃんは、いつもびくびくしてるから駄目ですわ。」
「だって、恭ちゃんが返事しないんだもの。」
「恭ちゃんにも行けっておっしゃったの?」
「うん、はじめは恭ちゃんに行けって言ったの。でも恭ちゃんが默ってるから、僕来ちゃったんだい。」
「恭ちゃんがいやなら、次郎ちゃんはなおいやでしょう。小っちゃいんですもの。」
「だって僕、父ちゃんが好きだい。」
「そう? お父さんお好き?」
「大好きだい。うちで一等好きだい。」
「そんなにお父さんは次郎ちゃんを可愛いがって?」
「ああ、ちっとも叱らないよ。」
「そりゃいいわね。……でも、昨日は一人で怖かったでしょう。」
 次郎は急に肩を聳《そびや》かして、
「ううん、ちっとも怖くなんかないよ。」
「まあお偉い。」
「だって僕、ここに来たいと思ったんだもの。」
「そう? ここのおうち、そんなにお好き?」
「うちなんかより、うんと好きだい、誰も叱らないんだもの。」
「でも、辰男さんと喧嘩なさるんじゃありません?」
「ううん、角力とるんだい。恭ちゃんや俊ちゃんとは喧嘩するんだけど。」
「いつも負けやしません? 恭ちゃんや俊ちゃんに。」
「…………」
「まけるんでしょう?」
「誰も見てないとこだと、僕きっと勝つよ。」
 お浜は暗い顔をして唇を噛んだ。
「僕、乳母やの家に行っちゃいけないの? 乳母やのうち、一等好きなんだがなあ。」
 お浜は次郎の肩にかけていた手をぐっと引きしめて、ぼろぼろと涙をこぼしながら、
「駄目、今は駄目なの。……でも来年は次郎ちゃんも学校でしょう。そしたら、毎日逢えるんですよ。だから、……」
 次郎はその言葉を聞くと、突っ放すようにお浜の手を押しのけて、立ち上った。そして、探《さぐ》るような視線を彼女に投げた。彼は、ふと、毎日学校に通っている、恭一のことを思い出したのである。
 お浜は、次郎がなんでそんな真似をするのか解らなかった。で、すこし変に思いながら、手をさし伸べてもう一度彼を引きよせようとした。しかし次郎は、人に慣れない小猫のように、眼だけをお浜に据えて、じりじりとあとじさりした。
「どうなすったの、次郎ちゃん。学校がおいや?」
 お浜はそう言って立ち上ると、無理に次郎をつかまえた。そして再び蓆の上に坐って、彼を自分の膝に腰かけさせた。
「ねえ、次郎ちゃん。」
 と、次郎の耳に口をよせて、
「学校に行かないじゃ、偉くなれませんのよ。なあに、勉強だって何だって、恭ちゃんなんかに負けるもんですか。……恭ちゃんはね、そりゃ学校では泣虫なのよ。あんな泣虫、乳母やは大きらい。次郎ちゃんはきっと泣かないでしょうね。だって、学校では乳母やがついてて上げるんですもの。」
 お浜の膝の上でぐずついた次郎の尻が、それでやっと落ちついた。
 二人は、それからも永いこと炉の前を動かなかった。蒸桶から吹き出す湯気は、濃い蝋のにおいを溶《と》かしこんで、真赤にほてった二人の顔を、おりおり包んだ。
 二人は身も心もあたたかだった。
 ひる飯には、正木のお祖母さんが気をきかして、お浜を子供たちと一緒のちゃぶ台に坐らせた。お浜はみんなのお給仕をしながら、たえず次郎に気を配って、彼のこぼした御飯粒を拾ってやっては、それを自分の口に入れた。
 お副食《かず》は干鱈と昆布の煮〆だったが、お浜はそれには箸をつけないで沢庵《たくあん》ばかりかじっていた。そして、次郎の皿が大方空になったころ、そっと自分の皿を、次郎の前に押しやった。
「ううん、それは、乳母やのだい。」
 次郎はそう言って、皿を押し返した。お浜は顔を赧《あか》らめて、あたりを見まわしたが、誰もそれに気づいた様子がなかったので、ほっとした。そして今度は急いで自分の皿から、お副食を半分ほど次郎のに分けてやった。
 すると今度は次郎がまごついた。こんな特別な心づかいを平気で受けるようには、彼の心はこのごろ少しも慣らされていなかったのである。彼は盗むように、お浜と従兄弟たちの顔を見た。そしてお浜が与えたものに箸をつけるのを躊躇《ちゅうちょ》した。
「坊ちゃんは何時お帰り? 今日? 明日?」
 お浜は、みんなの気をそらすつもりで、そんなことを言ってみた。しかし、気をそらす必要のあった者は、お浜自身と次郎との外には誰もいなかった。従兄弟たちはお浜が
自分のお副食を次郎の皿にわけてやったのを見ながら、ほとんどそれを気にとめていないようなふうであった。
「僕、もっと泊っていきたいんだがなあ。」
 そう言って、次郎はきまり悪そうに、皿に箸を突っこんだ。
「お正月まで泊っておいでよ。ね、いいだろう。」と、久男が言った。――久男は、一番年上の従兄弟である。
「でも、お正月はおうちでなさるものよ。」
 と、お浜はいそいで久男の言葉を打消し、何かちょっと考えるふうであった。
「どこだって同じだい。ねえ、お祖母さん、次郎ちゃんはお正月まで泊ってもいいだろう。」
「そうねえ……」
 と、お祖母さんは、隣のちゃぶ台から、なま返事をした。
「なんでしたら、私、お暇《いとま》する時に、途中までお送りしましょうかしら。」
 お浜は箸を持った手を膝の上に置きながら、改まって言った。すると、茶の間で一人だけ別の膳についていたお祖父さんが、
「なあに、構うことはない。本田の方から誰か迎えをよこすまでは、幾晩でも泊めて置くがよい。」
 正木のお祖父さんにしては、かなり烈しい語気だった。白髯《はくぜん》の間からのぞいている頬が、いつもより赤味を帯びて光っていた。
 お祖父さんにそう言われると、お祖母さんもすぐその気になったらしく、
「そう急いで送って行くこともあるまいよ。よかったら、お浜もゆっくり泊っていったらどうだね。次郎と一緒に寝るのも久しぶりだろう。」
「でも、そんなことをいたしましたら、それこそ本田の奥様が、……」
「なあに、お民の方はこちらに任してお置きよ。今度来たら、お祖父さんからも、よく話して下さるはずだから。」
 お浜はわくわくするほど嬉しかった。彼女は、次郎の耳許に口をよせて囁くように言った。
「乳母やも泊っていきましょうね。」
 次郎は俯向いて、お椀の中に残った飯を、箸の先でいじるだけで、返事をしなかった。次郎がこんなにはにかんだ様子をするのは、全く珍しいことだった。

    一二 押入

 その夜は、次郎にとっても、お浜にとっても、まるで思いがけない一夜であった。そして翌朝になると、便所に行くにも、顔を洗うにも、二人は必ず一緒だった。お浜が土間の掃除をはじめると、次郎も何処からか箒《ほうき》を持って来て手伝った。
「まるで鶏の親子みたいだね。」とお祖母さんが笑った。
 午過ぎに、本田から歳暮のものを持って直吉がやって来た。お浜は、彼に顔を見られないうちに、そっと裏口から抜けて帰ろうと思ったが、次郎がいつも尻にくっついているので、それが出来なかった。
「おや、お浜さんも来ていたのかい。」と、直吉は台所に腰をおろして、にやりとした。
「ああ、ちょいとこちらに用があってね、でも坊ちゃんにお逢い出来るなんて、夢にも思っていなかったのよ。」と、お浜は土間に立って、次郎に袖を握られながら、言訳らしく答えた。
「今日来たのかい。」
「実は昨日来たんだけどね、皆さんで是非泊っていけっておっしゃるものだから、ついゆっくりしちゃったのさ。……でも、奥さんには内証にしておくれよ。」
「ああ、いいとも。」
 直吉の返事は、無造作過ぎて、何だか頼りなかった。
 しかしお浜は、どうせ何処からか知れるだろう、という気もしたので、それ以上たっては頼みこまなかった。
「直さんは、すぐかえるんだろう。」
「帰るとも、ゆっくりなんかしちゃ居れないや。」
「では、坊ちゃんも今日はお帰りになった方がいいんだから、一緒にお連れしておくれよ。お一人じゃ、何ぼ何でも、おかわいそうだから。」
「俺もそのつもりさ。奥さんにそう言いつかって来ているし、それにあのお祖母さんが、恐ろしくやかましいことを言ってるんで
前へ 次へ
全34ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング