た。
「恭さんは、ちゃんといつもの所に置いたと言いますがな。」
「僕知らんよ。」
「知っとるなら知っとると、早く言って下さらんと、学校が遅うなりますがな。」
「僕知らんよ。」
「ほんとに知らんかな。」
「知らんよ。」
「そんならそれでいいから、とにかく、お母さんとこまでお出でなさいな。」
「やぁだい。」
「でも、お母さんが呼んどりますよ。」
 次郎はそう言われるのが一番いやだった。彼は、母の命令に対して正面から背《そむ》くだけの勇気がまだどうしても出なかっただけに、一層いやだったのである。
 彼は、しかし、仕方なしに、しぶしぶお糸婆さんに手を引かれながら、母屋《おもや》の方に行った。子供部屋では、お民が気違いのように、そこいらじゅうを引っかきまわして、雑嚢を探していた。
 そのそばで、恭一は足をはだけて、泣きじゃくっていた。
 お民は、次郎の顔を見るなり、例によって高飛車《たかびしゃ》にどなりつけた。
「次郎、早くお出し、どこへかくしたんだね。」
 次郎は、しかし、そうなるとかえって落ちついた。彼は徹頭徹尾とぼけ返って、「僕知らないよ」を繰《く》りかえした。
 捜索《そうさく》は、座敷や、茶の間や、台所にまで拡がっていった。しかし、幸いなことに、便所の中まで探して見ようとする者は、誰もいなかった。
 証拠があがらない限りは次郎の勝利である。嫌疑《けんぎ》がいかほど濃厚であろうと、それはかれの知ったことではない。
 時間は刻一刻と経った。彼はますます落ちついた。
 そして恭一は、本がなくては嫌だと言って、とうとうその日学校を休んでしまったのである。
 騒ぎがひととおり片づいてからも、重くるしい空気が永いこと家の中に漂った。
 お民は次郎の顔さえ見ると、ぐっと睨めつけた。そして、幾度となく離室に行ったり、台所に行ったりして、お祖母さんやお糸婆さんと、ひそひそ立ち話をした。恭一は、泣っ面をしながら、たえずその尻を追いまわしていた。
 次郎は、なるだけお民に近寄らない工夫をした。しかし、それとなくみんなの動静を窺うことを怠らなかった。とりわけ便所に出入りする人たちの顔つきに気をつけた。そしておりおりいやに狎々しい声で、恭一に話しかけたりした。
 夕食のあと、お民はもう一度念を押すように言った。
「次郎、ほんとうにお前知らないのかい。」
「僕知らないよ。」
 それから間もなく、お民は恭一をつれて何処かに出かけて行った。次郎はそれで万事けりがついたような気になって、ほっとした。同時に彼は、自分の計画が案外うまくいったのを内心得意に思った。
 尤も、その得意も、ほんの当日限りのものでしかなかった。というのは、その翌日から、恭一は新しい雑嚢に新しい学用品を入れて、いつものとおり嬉しそうに学校に出て行くことになったからである。
 しかも、数日の後には、次郎は、下肥《しもごえ》を汲んでいた直吉の頓狂《とんきょう》な叫び声で、大まごつきをしなければならなかった。
「あっ。あった、あった。奥さん。坊ちゃんの雑嚢がありましたよ。」
 みんなは直吉の叫び声で、総立ちになって縁側に出た。
 直吉は、肥柄杓《こえびしゃく》の先に、どろどろの雫《しずく》の垂れている雑嚢をぶら下げて立っていた。
 次郎はそれを見ると、すばやく表の方に飛び出した。咄嗟《とっさ》の場合、さすがの彼も、そうすることが彼の罪状の自白を意味するということには、まるで気がつかなかったのである。
 万事は明瞭になった。次郎は、その日じゅう何処かに身をかくしていたが、暮方になっておずおずと裏口から帰って来た。
 お民や、お祖母さんが、その晩彼をどう待遇したか、また彼がどんな態度で彼らに反抗したかは、読者の想像にまかせる。ただ、この事件以来、彼がこれまでより一層大胆になり、且つ細心になったことだけは、たしかである。

    一〇 お使い

 大晦日に近いある日のことだった。
「でも、使に行く者がありませんわ。直吉も今日は町に買物に出ていますし。」と、お民はいかにも忙しそうに、立ったままで言った。
「お糸婆さんがいるだろう。」と、俊亮は長火鉢に頬杖をついて、お民を見上げた。
「こんな時に婆さんの手をぬかれたんでは、やり切れませんわ。どうせ正木へは、二三日中に、歳暮《せいぼ》のものを届けることにしていますから、その折、一緒でもよかありませんか。」
 正木というのはお民の実家の姓である。
「だが、これは別だよ。先方からもなるだけ早く届けてもらいたいって、言って来ているんだから。」
「そう早く腐るものではないでしょう。」
「腐りはせんさ、鮭の燻製《くんせい》だもの。しかし、正木の方でも正月の御馳走の心組があるだろうし、それに、先方へ礼状を出してもらう都合もあるんだから、一日も早い方がいいよ。」
「貴方は妙なところに性急《せっかち》ね、ふだんは、のんきな癖に。」
「お前はそのあべこべかな。」
「まあ! すぐそれですもの。」
「とにかく、誰か使いに行って貰いたいと思うね。」
「誰もいませんのよ、今日は。」
 お民は突っけんどんにそう言って部屋を出ようとした。俊亮は、しかし、相変らず悠然と構えて、
「恭一では駄目だろうか。もうこの位の使いは、やらしてみるのもいいんだが。」
「でも、あれは気が弱くて、まだ正木へ一人でなんか行ったことありませんわ。それに、どうせお祖母さんのお許しが出ませんよ。」
「困るなあ、いつまでもそんなに甘やかしていたんじゃ。……いっそ次郎なら行けるかも知れんね。」
「まさか、なんぼあの子が意地っ張りでも。」
「いいや、あいつなら行けるかも知れんぞ。……そうだ、あれをやろう。しかし、道を知るまいな。」
「道なら、この夏からもう五六度もつれて行きましたから、大ていは解っていると思いますわ。……でも、あんまりじゃありません。恭一と二人でなら、とにかくですけれど。」
「そうだな、二人づれだとお祖母さんにも不服はないだろう。」
「さあ、それはお訊ねしてみませんと……」
「ともかくも、二人をここに呼んでみい。駄目なら駄目でいいから。」
 お民はしぶしぶ出て行った。そして間もなく二人をつれて来て、火鉢の前に坐らせた。
「恭一、お前、正木のお祖父さんとこまで、使いに行って来い。」
「…………」
 恭一は、何のことだか解《げ》せないと言ったような顔をして、父を見た。
「駄目か、一人がいやなら次郎をつれて行ってもいいが……」
「…………」
 恭一はやはり返事をしないで、今度は母の顔を見た。
「二人でもいやかね。正木のお祖父さんが喜ぶんだがな。」
「…………」
 恭一は眼を伏せて、母によりそった。
「やっぱり駄目か。次郎、どうだい、お前は。」
 次郎はそれまでに何度も恭一の顔をのぞいていたが、「行こうや、恭ちゃん。」と少しはしゃぎ加減に言った。
 恭一は、横目でちょっと次郎の顔を見たきり、やはり、返事をしない。
「恭一がいやなら、次郎一人で行け。どうだい。」と、俊亮は少し笑いを含んで、そそのかすように言った。
 さすがに次郎も、それにはすぐ返事が出来なかった。そして、しばらくは、わざとらしく首をひねっていたが、いかにも歎息するように、
「僕、道を間違えるといけないからなあ、橋んとこまでなら知ってるんだけれど。」
「橋んとこまで知っているなら、あれからすぐじゃあないか。」
「すぐかなあ。」と、まだ不安らしい。
「橋を渡ったら、土堤を右に行くんだ。それから一軒家のてまえで土堤を下ると、あとは真直《まっすぐ》だ。」
「ああ、わかった。僕行こうか知らん。」
「行くか。偉い偉い。もし泊りたけりゃ泊って来てもかまわんぞ。」
 次郎は立ち上って帯をしめ直すと、もう出て行きそうにした。俊亮はその様子を面白そうに眺め入って肝腎《かんじん》の用事をいいつけるのをうっかりしていた。
「次郎、お前、ほんとに大丈夫かい。」とさすがにお民も気づかわしそうだった。
「僕、平気だい。」と次郎は、すっかり得意になって、室を出かかった。
「まあ、次郎、お父さんの御用事も聞かないで行くのかい。……貴方、どうなすったの、御用事は。」
「おっと、そうだ。次郎、ちょっと待て、これを持って行くんだ。手紙が這入っているから、なんにも言わんでいい。風呂敷ごと誰かに渡すんだ。いいか。」
 次郎は包みを渡されると、それを振廻すようにしてさっさと土間に下りた。お民は、やはり気がかりだったと見えて、恭一の手を引きながら、門口まで出て、何かと注意した。しかし次郎はそれにはろくに返事もしなかった。
 正木の家までは、ざっと小一里もあった。
 次郎が家を出たのは、二時をちょっと過ぎたばかりだったが、冬空が曇っていたせいか、すぐにも日が暮れそうで、いやに淋しかった。刈田には、まだところどころに案山子《かかし》が残っていた。その徳利で作ったのっぺらぼうの白い頭が、風にゆらめいているのも、あまりいい気持ではなかった。狐が出ると聞かされていた団栗《どんぐり》林から、だしぬけに黒犬が飛び出した時には、思わず足がすくんでしまった。
 途中に部落が二つあったが、見知らぬ子供たちが、遊びをやめて、じろじろと自分を見るので、次郎はいじめられるのではないかと、びくびくした。彼にとっては、たしかに雑嚢事件以来の緊張した時間だった。やっと正木の家のすぐ手前の曲り角まで来ると、彼はほっとして、思い出したように袖口で鼻汁をこすった。そして、彼の足どりが急にゆったりとなった。
 次郎は、正木の家が何とはなしに好きである。今日、たった一人でやって来る気になったのも、一つはそのためだった。
 正木のお祖父さんは、維新までは、さる小大名の槍の指南をしていたそうだが、廃藩後、すぐ蝋《ろう》屋をはじめて、今ではこの近在での大旦那である。上品で、鷹揚《おうよう》で、慈悲深いので誰にも好かれている。それに、お祖母さんが信心深くて、一度も人に嫌な顔を見せたことがないというので有名である。次郎は、いつとはなしに、この二人を、自分の家の人たちとはまるでべつの世界の人間のように思いこんでいるのである。
 なお、この家には、伯母夫婦――伯母はお民の姉で、それに婿《むこ》養子がしてあった――に、子供六人、それに十人内外の雇人が、いつもいた。人数が多いせいか、非常に賑やかで、食事時など、幾分混雑もしたが、かえってその中に、のんびりした自由な気分が漂っていた。子供たちにも、一体に野性を帯びた朗らかさがあって、次郎はこの家に来ると、彼らを相手に、のびのびとした遊びが出来るのであった。
(みんなで泊っていけって言うか知らん。)
 そんなことを考えながら、彼は正木の門口を這入った。
 土間は餅搗《もちつき》で大賑わいだった。彼は男たちや女たちの間をくぐりぬけて、やっと上り框《がまち》まで行ったが、餅搗でみんな興奮していたせいか、誰も彼が来たことに気がつかなかった。従兄弟《いとこ》たちは、お祖母さんと一緒に、板の間でやんやんとはしゃぎながら、小餅を丸めている。お祖父さんと伯母さん夫婦は、奥にでもいるのか、姿が見えない。
 次郎は鮭包みを下げたまま、しばらく混雑の中にしょんぼりと立っていた。しかし、いつまで待っても、誰も言葉をかけてくれそうにない。
 心に描いて来たものが、すっかりけし飛んでしまった。彼はたまらなくなって、わっと泣き出した。
「おや。」
「まあ。」
 みんなが一せいに仕事をやめて、次郎の方を見た。
「次郎じゃないか。いつ来たんだね。」
 と、お祖母さんが、手についた粉を払いながら、立って来た。同時に、従兄弟たちも振向いて、みんな呆れたような顔をしている。
 次郎は泣きつづけた。
「まさか一人で来たんじゃあるまいね。母さんと一緒かい。」
 次郎はやはり泣くだけである。
「まあどうしたんだね、この子は。……おや、包みなんか下げて……何を持って来たのかい。」
 次郎は泣きながら、包みを差出した。お祖母さんはそれを受取りながら、
「泣かないで言ってごらん。一人で来たのかい……え?」
 次郎はやっとうなずいたが、泣声
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