しておいてくれる握飯と沢庵をたべた。握飯には、きまって胡麻塩《ごましお》がつけてあり、沢庵は麻縄のように硬かった。その前に坐ると、彼らの唾液は滾々《こんこん》と流れた。
次郎はお浜の家で物を食べることをお民に固く禁じられていた。このことは入学の当日、お浜にも厳《きび》しく、言い渡されたことであった。しかし、お浜も次郎も、そんなことはまるで忘れてしまっているかのようであった。
「何も飯代をいただこうというのではないし。」
これがお民から文句が出た時の用心に、お浜が考えておいた理窟であった。
次郎の帰りが遅くなるので、とかく迷惑するのは直吉だった。
次郎はすでに、本田と正木と学校との間を、一人で自由に往来することが出来たし、それに、時としては菜種畑の中に、小一時間も押しづよく隠れていたりするので、直吉は、迎えに来ても、捜しあぐんで、ひとりで帰ることが多かった。
しかし、珍しいことには、次郎は、まだ一度も校番室に泊りこんだことがなかった。それは、お浜が、お民に対する意地から、日暮近くなると、進んで次郎を帰すことにつとめたからだった。次郎は、そんな場合、どうしても家に帰るのが嫌だと、きまって正木の家に行くことにした。そして一度正木の家に行くと、大てい五日や一週間は根がついて、そこから学校に通うのであった。正木では、初めのうちこそ心配もしたが、たび重なるにつれて、それを気にとめる者さえいなくなった。
「次郎のほんとのお家は、いったい何処《どこ》だね。」
飯時などに、時たま、お祖母さんがそんなことを言って笑ったりするので、みんなも次郎の来ているのに気がつき出すくらいであった。
本田では、俊亮と、お民と、お祖母さんとが、まるでべつべつの気持で、いつもそれを問題にしていた。お民は、自分の感化がちっとも次郎に及ばないのをくやしがった。そしてその罪をいつもお浜に被《かぶ》せた。
お祖母さんは、次郎の行末《ゆくすえ》などには、まるで無頓着だったが、口先だけでは、いつも、
「あの子にも困ったものだ。」
と、いかにも歎息するらしく言い、そして、最後にはきまって、
「ああ何時も何時も、あちらにばかり入浸《いりびた》っているのを、私という老人もいながら、放っとくわけにもいくまいではないか。」と言った。
俊亮は、二人が、めいめいに自分の立場だけからものを考えるのを、にがにがしく思った。そして、どうかすると、いっそ次郎を正木に預けてしまおうか、と考えたりした。
「なあに構うことはない。当分、次郎の好きなようにさしておくさ。」
俊亮は、母や妻がやかましく言えば言うほど、のんきそうに構えて、そんなことを言った。そのくせ、土曜に帰宅してみて、次郎がいなかったりすると、すぐ、自分で正木に出かけて行って、彼をつれて帰るのだった。
そうした周囲の空気の中で、次郎は、ぐいぐいと彼自身の新しい天地を開拓していった。彼は、本田と、正木と、学校との三カ所を中心に、沢山の遊び仲間をこさえた。そして、どの仲間でも、彼は彼の腕力と、気力と、智力とに相当した地位を占めることが出来た。
体が小さいせいもあって、腕力では大したこともなかったが、気力と智力とにかけては、彼はたいていの子供にひけを取らなかった。時とすると、年上の子供たちまでを、自分の手下のようにして遊んでいることがあった。ことに彼が、喜太郎を喧嘩で負かしてからは、仲間に対する彼の勢力は、急に強くなった。
喜太郎というのは、村で魚屋兼料理屋をしている庄八の長男で、次郎より二つも年上であった。背が馬鹿に高くて腕力があるうえに、父の庄八が、ちょっと睨みのきく親分株の男だったので、性来《せいらい》気の小さいわりに、横暴な振舞《ふるまい》が多かった。恭一などは、学校の往復に彼と一緒だと、いつもびくびくしていた。次郎も最初のうちは、むろん彼の言いなりになっていた。
しかし、次郎の忍耐はそう永くはつづかなかった。
或日、彼がいつもの通り、校番室でお鶴と握飯を食っているところへ、喜太郎がひょっくり窓から顔をのぞかせて、
「おれにも一つくれ。」
と、その長い手を次郎の方に突き出したのである。
次郎は、お鶴と顔を見合わせて、しばらく返事をしなかった。鉢には、まだ握飯が二つ残っていた。しかし、その一つは次郎にとって、他の一つはお鶴にとって、どうしてもなくてはならないものだったのである。
「おい、早くよこさんか。」
喜太郎は、泳ぐように窓から体を乗り入れて言った。
次郎と、お鶴は、思わず喜太郎の方に尻を向けて、握飯をかばうようにした。
「畜生、覚えていろ。」
喜太郎は、そう言って、地べたに飛び下りたが、すぐその手で土塊《つちくれ》をつかむと、それを部屋の中になげこんだ。土塊は天井にあたってばらはらに砕けた、そしてむざんにも握飯の表面をまだらにした。
次郎の眼は異様に光った。彼はやにわに立ちあがって、窓から飛び下りると、うしろから喜太郎の腰のあたりに武者ぶりついた。
しかし、腕力では、彼は喜太郎の相手ではなかった。次の瞬間には、彼は仰向けに地べたに倒されていた。しかも、彼の胸の上には、喜太郎の大きな膝頭が、丸太のようにのっかっており、両手は、地べたに食い入るように、おさえつけられていた。
次郎は、足をばたばたさせたり、唾を吐きとばしたりしたが、何のききめもなかった。唾はかえって自分の顔に落ちて来るばかりであった。
だんだんと息がつまって来る。あせればあせるほど、喜太郎の膝頭が胸をしめつける。次郎は泣き出したくなった。
しかし、せっぱつまった瞬間に、皮肉な落ちつきを取りもどして、何かの計画を頭のなかから引き出して来るのが、次郎のいつものでん[#「でん」に傍点]である。彼は四五秒ほど、じっと喜太郎の顔を見つめていた。それから、自分の胸の上に乗っかっている膝頭に、そろそろと視線を転じた。膝頭はまるく張り切って、陽に光っていた。自分の口との距離は、わすか一寸ほどである。
とっさに彼の頭が上に動いた。顔の筋肉がブルドッグのように引きつった。同時に、まだ飯粒のくっついている彼の味噌っ歯が、喜太郎の膝頭の一角にずぶりとめりこんだ。
喜太郎は、地の底をモーター・サイレンが走りまわるような悲鳴をあげながら、両手で虚空《こくう》を引っかきまわした。
次郎は夢中だった。彼はただ、口の中が塩《しょ》っぱくなるのを、かすかに感じただけだった。
彼が自分にかえった時には、彼は、わいわい騒いでいる大勢の子供たちに取りかこまれて突っ立っていた。喜太郎は、地べたにしゃがんで、血だらけの膝頭を両手で押えながら、次郎の方を向いて、犬が鳴くようにわめいていた。
「どうしたんかっ、おい!」
と、一人の先生が教室の窓から大声で叫んだ。同時に、お浜のいかにも急《せ》きこんだらしい、かん高い声が近づいて来た。
次郎は、自分のやったことが急に恐ろしくなった。そしてやにわに子供たちの間をくぐりぬけて、いっさんに校門の方に走って行った。
彼は、しかし、校門を出ると、すぐ迷った。
(うちに帰ろうか。それとも正木に行こうか。)
何しろ、血を見るような事件を起したのは、彼としても、全くはじめてである。いずれにしても、今度ばかりは無事にすみそうな気がしない。
ふと、彼は、今日は父が帰宅する日だということを思い起した。
(そうだ、父さんならきっと何とかしてくれる。)
そこで彼は、父が帰る時間まで、鎮守《ちんじゅ》の杜《もり》にかくれていることにした。
しかし、杜にかくれてみても、彼の心は落ちつかなかった。不思議に今日は一人でいるのが怖い。村中の者が、今にも自分を取りかこみそうな気がする。喜太郎の父の庄八が、出刃でもぶらさげて来たら、どうしようかと思う。
(やっぱり、うちにかくれている方が安心だ。)
そう思って、彼はあたりに気を配りながら杜をとび出した。
*
その日の夕方、次郎は、俊亮と、お民と、お浜の三人が茶の間で話しこんでいるのを、隣の部屋から立ち聴《ぎ》きしていた。
俊亮――「それで先生はどう言っているんだね。」
お民――「とにかく、庄八の方に、一刻も早くこちらから挨拶をした方がいい、とおっしゃるんです。」
俊亮――「挨拶には、もうお前が行ったんだろう。」
お民――「ええ、でもほんのおわびだけ……」
俊亮――「それでいいじゃないか。」
お民――「でも、向こうに傷を負わしたんですもの、何とか色をつけませんと、庄八も承知しないでしょう。」
俊亮――「庄八が承知しない? 先生がそう言ったかね。」
お民――「ええ。」
俊亮――「じゃ、俺はいよいよ不賛成だ。こちらが本当に悪けりゃ、庄八にだって誰にだって、いくらでもあやまるし、場合によっては、金も出さなきゃなるまいさ。しかし、何といっても、喜太郎の方が年上だからね。」
お浜――「そうですとも、もともと悪いのは、何といっても喜太郎でございますよ。」
お民――「いったい、ほんとうのところはどうなんだい。随分次郎にもきいてみたんだけれど、はっきりしないところがあるんでね。」
お浜――「ええ、……それは、何でも、……お鶴にきくと、喜太郎が坊ちゃんに泥をぶっつけたのが、もとなんだそうでございますよ。」
お民――「だしぬけにかい。」
お浜――「ええ……」
お民――「理由もなしに?」
お浜――「ええ、何でも、校番室で坊ちゃんがお鶴と遊んでおいでのところへ、窓から泥を投げこんだらしゅうございます。」
次郎は、握飯の話が出るかと思って、ひやひやしていたが、とうとう出なかった。自分もそのことを母に言わないでおいてよかった、と彼は思った。
お民――「校番室なんかで、お鶴と遊ばしたりするからいけないんだよ。」
俊亮――「とにかく、もうすんだことだ。」
お民――「でも庄八は、こちらから相当の挨拶をしなければ、今夜にも自分で出かけて来るとか言ってるそうです。」
俊亮――「来たっていいじゃないか。向こうからも一応は挨拶に来るのが当然だからね。」
お民――「でもそれじゃ、事が面倒ですわ。」
俊亮――「なあに、何でもないよ。俺がよく話してやる。」
お浜――「そりゃ旦那様におっしゃっていただけば、庄さんも納得するとは思いますが、何しろあれほどの傷ですし、やはり坊ちゃんのためには、一応はさっぱりなすった方が……」
俊亮――「次郎のためを思うから、俺はそんなことをしたくないんだ。お前たちは、相手の傷のことばかり気にしているが、次郎としては、命がけでやった反抗なんだ。自分よりも強い無法者に対しては、あれより外に手はなかろうじゃないか。あいつの折角の正しい勇気を、金まで出して、台なしにする必要が何処にあるんだ。」
俊亮の語気は、いつもに似ず熱していた。次郎には、その意味がよく呑みこめなかった。しかし、自分のしたことを父が悪く思っていないことだけは、はっきりした。
お民――「そんなことをおっしゃったんでは、次郎は、この先いよいよ乱暴者になってしまいますわ。」
俊亮――「まさか、俺も、次郎の前でけしかけるようなことは言わんつもりだよ。あいつを闘犬に仕立てるつもりじゃないからな。」
お浜――「まあ。」
お民――「すぐ宅はあれなんだよ。冗談だか本気だかわかりゃしない。」
俊亮――「とにかく心配するなよ。」
お浜――「でも、坊ちゃんは、これから学校に行くのを嫌がりはなさいませんでしょうか。」
俊亮――「馬鹿な! 万一そんなだったら、庄八の家に小僧に出してやるまでさ。」
お民もお浜もつい吹き出してしまった。しかし、その言葉は、陰で聞いていた次郎の胸には、ぴんと響くものがあった。
次郎は、そのあと、父から一応の訓戒をうけて、九時ごろ寝た。――訓戒といっても、母のそれとはまるでちがっていた。
「正しいと思ったら、どんな強い者にも負けるな。しかし犬みたいに噛みつくのはもうこれからは止せ。」
これが父の訓戒の要点であった。
次郎は、庄八がいつやって来るかと、多少気にかかりながらも、寝床にはいると、間もなく眠ってしまっ
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