まり心よくは思わなかった。しかしこれ以上ぐすってみる勇気も持合わせなかったので、引っぱられるままに縁側から上って来た。
お民はじろりと彼の顔を見ただけで、何とも言わなかった。次郎は自分の坐る場所がわからなくて、右の人差指を口に突っこみながら、しばらく柱のかげに立っていた。
「次郎、ここに坐れ。」
俊亮は自分のお膳の前を指《さ》した。その声の調子は乱暴だった。しかし次郎の耳には、少しも不愉快には響かなかった。彼はお民の眼をさけるように、遠まわりをして、指された場所に坐った。
俊亮は、盃《さかずき》をあげながら、三人の子を一通り見較べた。どう見ても次郎の顔の造作が一番下等である。眼付や口元が、どこか猿に似ている。おまけに色が真っ黒で、頬ぺたには、斜に鼻汁の乾いたあとさえ見える。彼は一寸変な気がした。しかし、そのために次郎をいやがる気持には少しもなれなかった。むしろ、かわいそうだという気が、しみじみと彼の胸を流れた。彼はにこにこしながら、元気よく言った。
「大きくなったなあ。体格はお前が一等だぞ。あすはお父さんが休みだから、大川につれて行ってやろう。泳げるかい。」
次郎は、しかし、返事をしなかった。彼はこれまで、学校の近くの沢で、桶につかまって泳いだ経験しかなかったのである。
「父さん、僕も行くよ。」
「僕もよ。」
恭一と俊三とが、はたから眼を輝やかして言った。しかし俊亮は、それには取りあわないで、次郎の方ばかり見ながら、
「次郎、どうだい、いやか、いやだったら大川は止してもいい。次郎は何が一番好きかな。明日は父さんは次郎の好きな通りにするんだから、何でも言ってごらん。」
みんなの視線が一|斉《せい》に次郎の顔に集まった。次郎はこの家に来てから、何かにつけ、みんなに見つめられるのが、何よりも嫌だったが、この時ばかりは、全く別の感じがした。彼は父に答えるまえに、先ず母と兄弟たちの顔を見まわした。そしてのびのびと育った子供ででもあるかのような自由さをもって、いかにも歎息するらしく言った。
「僕、まだ本当には泳げないんだがなあ。」
すると、恭一が、
「大川には、浅いところもあるんだよ。僕たち、いつもそこで蜆《しじみ》をとるんだい。」
「ほんとだい。」と、俊三が膝を乗り出した。
「泳げなきゃ、父さんが泳がしてあげる。なあに、じきに覚えるよ。」
と、俊亮がそれにつけ足した。
お民はまだ默っていた。次郎はいくぶんそれが気がかりだったが、
「そんなら僕行くよ」と、さっきからの自由さを失わないで答えた。
そして、自分の一言で、明日の計画にきまりがついた時に、彼はしばらくぶりで、お浜の家にいた頃のような気分を味わった。
間もなく俊亮は盃を伏せて、軽くお茶漬をかきこんだ。そして庭下駄を突っかけると、体操のような真似をしながら、縁台のまわりを、ぐるぐる歩きまわった。
「もっとお涼みになる?」
お民がやっと口をきいた。
「うむ、縁台に茣蓙《ござ》を敷いてくれ。」
お民が茣蓙を取りに奥に這入ると、恭一と俊三とはすぐそのあとを追った。次郎は、まだひとりで縁側に坐ったままでいたが、その時ふと彼の眼にしみついたのは、父のお膳に残された一切れの卵焼であった。
おおよそ次郎にとって、卵焼ほどの珍味は世界になかった。そして、お浜の家での彼の経験から、彼は、よほどの場合でないと、そんな珍味は口にされないものだと信じていた。ところがこの家では、お祖母さんが離室《はなれ》で、おりおり卵の壺焼をこさえては、おやつ代りに恭一と俊三とに与えている。現に、今日の昼過ぎにも、二人がそれを食べながら、離室を出て来るのに、次郎は廊下で出過《でっくわ》したのである。彼はその時、つとめて平気を装ったが、二人の口から、温かく伝わって来る卵焼の香気を嗅《か》がされた時には、自分だけをのけ者にしている祖母に対して、燃えるような憎悪を感じ、これから先、どんなことがあっても、離室の敷居はまたぐまい、と決心したほどであった。
その卵焼が、今彼の眼の前に、誰にも顧みられないで、冷たく皿の中にころがっている。彼は何としても自分を制することが出来なかった。
しかし、彼は手を伸ばす前に、先す茶の間の方を見た。母が出て来るにはまだちょっと間がありそうだった。それから、庭を歩きまわっている父を見た。父は丁度あちら向きになって歩き出したところである。
彼はすばやく卵焼を掴んで、口の中に押しこんだ。
「次郎、星が飛んだぞ。ほら。」
次郎は、だしぬけに父にそう言われて、飛び上るほどびっくりした。そして、父は何も知らないで遠くの空を見ているんだと解ってからも、思い切って卵焼を噛むことが出来なかった。
「うむ……」
彼は返事とも質問ともつかない妙な声を出した。そして、急いで縁先にうつ伏しになって、下駄を探すような恰好をしながら、忙しく口を動かした。
彼が下駄をはいて、父のそばに立った時には、彼はもうけろりとしていた。たった今、喉《のど》を通ったばかりの卵焼のあと味が、まだ幾分口の中に残っているのを楽しみながら、彼は神妙らしく、父が見ている空の方向に視線を注いだ。
そこへお民が茣蓙を運んで来て、それを縁台に拡げた。俊亮はすぐ、ごろりとその上に寝て団扇を使いはじめた。お民もその端に腰をおろしながら言った。
「次郎も、みんなと一緒に、就寝《やす》んだらいいじゃないの。」
次郎は不服らしい顔をした。すると俊亮が傍から言った。
「まだ眠くはないさ。早いんだから。」
「でも外の子はもう就寝みましたよ。」
「馬鹿に早いじゃないか。……次郎はもう少し父さんのそばで涼んでいけ。」
「まあ、大そう次郎がお気に入りですこと。……では、次郎ここに掛けて、父さんのお相手をなさい。」
次郎は最初遠慮がちに縁台に腰を下したが、間もなく父と三四寸の間隔をおいて、自分もごろりと横になった。彼はなぜか、父の真っ白な、ふっくらした裸に、自分の体をくっつけてみたくなった。彼の汗ばんだ体は、蚊にさされたところを掻くような恰好をしながら、じりじりと父にくっついて行った。
「汚ないっ。」
俊亮はだしぬけに、びっくりするような声で呶鳴りながら、はね起きた。――彼は鷹揚《おうよう》でなさけ深い性質に似合わす、一面神経質で潔癖なところがあり、他人の家で畳に手をついたりすると、帰ってから、何度も手を洗わないではいられない性質だった。
「どうなすったの。」
さっきから、それとなく次郎の様子を見守っていたお民が、いやに落ちついて訊ねた。
「次郎のべとべとする体が、だしぬけにさわったもんだから、びっくりしたんだよ。」
と、俊亮は、次郎に触《さわ》られた横腹のあたりを、団扇の先でしきりに撫でている。
次郎は、変に淋しい気がした。彼は寝ころんだまま、じっと眼を据えて父を見た。すると、お民が言った。
「まあ、貴方にも呆れてしまいますわ。」
「何が……」
「かりにも、自分の子が汚ないなんて。」
「汚ないものは、汚ないさ。」
「それでも親としての愛情がおありですの。」
「何を言ってるんだ。それとこれとは違うじゃないか。馬鹿な。」
「男の親というものは、それだから困りますわ。いやに可愛がっていらっしゃるかと思うと、すぐそのあとで、子供の心を傷つけておしまいになるんですもの。」
「つまらん理窟を言うな。」
「貴方こそ屁理窟ばかりおっしゃってるんじゃありませんか。」
「いつ俺が屁理窟を言った。」
「ついさっきも、形よりは気持が大切だなんておっしゃったくせに。」
「それが屁理窟かい。」
「屁理窟ですわ。寄り添って来る自分の子を、汚ないなんて呶鳴りつけるような方が、そんなことおっしゃるんではね。」
「うむ……でも、俺には策略《さくりゃく》がないんだ。」
「おや、では私には策略があるとでもおっしゃるの。」
「あるかも知れないね。……しかし、俺はお前のことを言おうとしているんじゃない。」
お民は歯噛みをするように、口をきりっと結んで、しばらく默っていたが、
「貴方は、策略さえ使わなければ、子供に対してどんなことを言ったり仕たりしてもいいとおっしゃるの。」
「心に本当の愛情さえあればね。」
「その愛情が貴方のはまるであてになりませんわ。」
「そうかね。だが、こんな話はあとにしよう。この子の前でこんなことを言いあうのは、よろしくない。お互の権威を落すばかりだからね。」
お民は白い眼をして、ちらりと次郎を見たが、そのまま默ってしまった。俊亮は縁台をおりながら、
「それよりも、寝る前にもう一度行水をしたいんだが、湯があるかね。」
「風呂にまだ沢山残っていますわ。」
「そうか。――おい、次郎、お前も一緒に来い。父さんが綺麗に洗ってやる。」
次郎は、聞いていて、何が何やらさっぱり解らなかった。ただ母が、自分のために父に対して抗議を申しこんだことだけが、たしかだった。かといって、彼はそのために父よりも母を好きになるというわけにはいかなかった。最初父に「汚ない」とどなられた時には、落胆もし、不平にも思ったが、二人の言いあいを聞いているうちに、やっぱり父の方に何か知ら温かいものがあるように感じた。で、父に「一緒に来い」と言われると、彼は何もかも打ち忘れて、はね起きる気になった。
彼の心は、しかし、はね起きると同時にぴんと引きしまった。というのは、その時お民が縁側を上って行って、お膳をしまいかけたからである。
次郎は卵焼のことが心配だった。もし母に気づかれたら、と思うと、彼は身動きすら出来なくなった。彼は、突っ立ってじっとお民の様子に注意した。
「おやっ。」
お民は小声でそう叫ぶと、けげんそうに振り返って次郎の方を見た。次郎はしまったと思ったが、すぐそ知らぬ顔をして、眼をそらした。
「貴方、卵焼を残していらしったんでしょう。」
「うむ、残していたようだ。」
「それ、どうかなすったの。」
「どうもせんよ。」
「次郎におやりになったんではないでしょうね。」
「いいや……」
「どうも変ですわ。」
「卵焼ぐらい、どうだっていいじゃないか。」
俊亮はちょっと首をかしげて次郎の顔を覗きながら言った。
「よかあありませんわ。」
お民は冷やかにそう言って、また庭に下りた。
そして、つかつかと次郎の前まで歩いて来ると、いきなりその両肩をつかんで、縁台に引きすえた。
「お前は、お前は、……こないだもあれほど言って聞かしておいたのに。……」
お民は息を途切らしながら言った。
次郎は、母に詰問されたら、父もそばにいることだし、素直《すなお》に白状してしまおうと思っていたところだった。しかし、こう始めから決めてかかられると、妙に反抗したくなった。彼は眼を据《す》えてまともに母を見返した。
「まあ、この子は。……貴方、この押しづよい顔をご覧なさい。これでも貴方は放っといていいとおっしゃるんですか。」
お民の唇はわなわなとふるえていた。
俊亮は、困った顔をして、しばらく二人を見較べていたが、
「お民、お前の気持はよくわかる。だが今夜は俺に任しとけ。……次郎、さあ寝る前に、もう一度行水だ。父さんについて来い。」
そう言って彼は次郎の手を掴むと、引きずるようにして、庭からすぐ湯殿の方へ行った。
湯殿に這入ってから、俊亮はごしごし次郎の体をこするだけで、まるで口を利かなかった。次郎は、すると、妙に悲しみがこみ上げて来た。そしてとうとう息ずすりを始めた。
すると俊亮が言った。
「泣かんでもいい。だが、これから人が見ていないところでは、どんなにひもじくても物を食うな。その代り、人の見ている所でなら、遠慮せずにたらふく食うがいい。ねだりたいものがあったら、誰にでも思い切ってねだるんだ。いいか、父さんは意気地なしが大嫌いなんだぜ。」
その夜、次郎は父のそばに寝た。無論寝小便も出なかったし、蚊にも刺されなかった。また、夜どおし父に足をもたせかけたりしたが、決して呶鳴られるようなことがなかった。彼はこの家に来て、はじめて本当の快い眠りをとることが出来たのである。
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