。そして、跣足《はだし》のまま植込をぬけて、隣との境になっている孟宗竹の藪に這入ると、そのままごろりと寝ころんだ。
 そこで彼は涼しい風に吹かれながら、ぐっすり眠った。眼がさめたのは昼過ぎだった。腹がげっそりと減っている。それに何よりも喉が乾いて堪えられないほどだ。
 彼は起き上ると、八方に眼を配りながら、座敷の縁に忍びよった。そして縁板に足のよごれをにじりつけてから、足音を立てないように茶の間の方に行った。
 そこには誰もいなかった。もう昼飯がすんだあとらしく、ちゃぶ台の上には薬罐《やかん》と飯櫃《おひつ》だけが残されていて、蠅が五、六匹しずかにとまっている。
 彼はあたりを見まわしてから、薬罐《やかん》から口づけに、冷えた渋茶をがぶがぶと飲んだ。それから飯櫃の蓋をとって、いきなりそのなかに手を突っこんだ。
「誰だい。」
 だしぬけに台所からお民の声がきこえた。次郎はびっくりして手を引いたが、その五本の指には飯が一握りつかまれていた。彼はあわててそれを口に押しこみながら、座敷の方に逃げ出そうとした。
 しかし、もうそれは遅かった。座敷の敷居をまたぐか、またがないかに、彼は襟首をお民につかまれていたのである。
「お前は、お前は……」
 お民の声は、怒りとも悲しみともつかぬ感情で、ふるえていた。
 それから次郎は、ちゃぶ台の前に引き据えられて、ながいことお民と対坐しなければならなかった。
「ここはお前の生まれた家なんだよ。」
 説教は、彼が昨夜来何度も聞かされた言葉で始まった。
「ここの家はね、こんな田舎に住んでいても、れっきとした士族なんだよ。」
 これも次郎が聞きあきるほど聞いた文句であった。もっとも士族が何だかは、今だにはっきりしない。
「士族の子ともあろうものが、何という情ない真似をするんだよ。……強情で食べないつもりなら、いっそ二日でも三日でも食べないでいたらいいじゃないの。ご飯時には寄りつかないで、竹藪の中に寝たりしているくせに、こっそり忍んで来て手づかみで食べるなんて、思っただけでも、このお母さんはぞっとするよ。」
 次郎は、まだ指先にくっついている飯粒を、どう始末していいかわからないで、もじもじと手を動かした。
「それ、その手をご覧、それを見たら、ちっとは自分でも恥ずかしい気がするだろう。」
 次郎は何と思ったか、ぴたりと手を動かすのをやめてしまった。
「お前はね……」
 と、急にお民の声がやさしくなった。
「丁度八月十五夜の月が出る頃に生まれたので、今にきっと恭一よりも俊三よりも偉くなるだろうって、お父さんはじめ、みんなでおっしゃっているんだよ。」
 次郎は、これまでお浜が人の顔さえ見ると、よくそんなことを言っていたのを覚えている。そして彼は、そんな話が出ると、いつも内心得意になっていたが、母の口から今はじめてそれを聞かされて、急にそれがつまらないことのように思われ出した。同時に、彼は校番のむさ苦しい部屋が、無性《むしょう》に恋しくなって来た。
(偉くならなくてもいい。)
 そんな感じが、はっきりとではないが、彼の心を支配した。一人ぼっちで、しかも、どちらを向いても突きあたるような気持でいるのが、彼にはたまらなく嫌だったのである。
「お浜のところへは、もうどんな事があっても帰さないよ。それも、みんなお前に偉くなって貰いたいと思うからのことだよ。……このお母さんの心が、お前にわかるかい。」
 次郎には、もうお浜のところに帰れないということだけがわかった。
 彼は今更のように悲しくなって、思わず涙をぽたぽたと膝の上に落した。飯粒のついた指が、急いでそれを拭いた。
 お民は昨夜来はじめて次郎の涙を見て、それを自分の説教の効果だと信じた。そこで、簡単に説教のしめくくりをつけると、すぐ立ち上って、次郎のために椀と皿と箸を用意した。
 次郎の涙は容易にとまらなかった。彼は飯をかき込みながら、しきりに息ずすりした。袖口《そでくち》と手の甲が、涙と鼻汁とで、ぐしょぐしょに濡れた。お副食《かず》には小魚の煮たのをつけて貰ったが、泣きじゃくってうまくむしれなかったので、一寸箸をつけたぎりだった。それでも飯だけは四杯かえた。
 お民は、その間そばに坐って、次郎のために飯をよそってやった。
 それはむろん彼女の母としての愛情を示すためであった。しかし次郎の方から言うと、それはちっともありがたいことではなかった。なぜなら、もし彼女がそばにいなかったら、彼は四杯どころか、五杯でも六杯でも食べたであろうから。
 何よりも次郎の心を刺激したのは、恭一と俊三とが手をつないでやって来て、縁側から、珍しそうにその場の様子を眺めていたことであった。
「お前たちは、あっちに行っておいで。」
 お民は何度も二人をたしなめたが、二人は平気な顔をして、ちっとも動こうとはしなかった。飯が存分に食べられなかったのは、一つはそのためでもあったのである。
 飯がすむと、次郎はまたしばらくの間、母の説教をきいた。説教をきいている間に、涙がひとりでに乾いて、彼の心は妙に落ちついて来た。同時に、恭一と俊三とに対する憎悪の念が、冷たく彼の胸の底ににじむのを覚えた。

    七 玉子焼

「次郎、また一人でそんな所にいるのかい。ほんとに、どうしたっていうんだね。早くこちらに来て、お父さんにご挨拶をするんですよ。」
 お民に、そう声をかけられた時には、次郎は、暮れかかった庭の木立の間を、一人でぶらつきまわっていたのであった。
 父の俊亮は、猿股一つになって、お民に蚊を追わせながら、座敷の縁で酒をのんでいた。そのそばには恭一も俊三も坐っていた。
 次郎にとっては、彼の父は、まだ何とも見当のつかない存在であった。というのは、父は、この村から三四里も離れたある町で小役人を勤めていて、土曜から日曜にかけてしか帰って来なかったので、次郎は里子時代に、めったに彼と顔をあわせる機会がなかったし、まして、彼に言葉をかけて貰った記憶などほとんどなかったからである。
 次郎は、しかし、父の顔つきだけは、いつとはなしに、はっきり覚えこんでいた。そして、その顔は、たしかに家じゅうの誰のよりも親しみやすい顔だった。むろん、お浜の亭主の勘作などにくらべると、ずっとやさしそうに思えたのである。
 で、次郎は、今日母から、
「夕方にはお父さんが帰っていらっしゃるんだよ。次郎がここに帰って来てから初めてだね。」
 と言われた時には、一刻も早く逢ってみたいような気になった。
 そして、いよいよ夕方になって、父を迎えるために、みんなが庭に打水を始めた時には、次郎は珍しく恭一のあとについて、柄杓《ひしゃく》で庭石に水をまいて歩いたりしたのだった。
 それでも、彼は、いざ父が帰ったと聞くと、妙に気おくれがして、みんなと一緒に玄関にとび出して行こうとはしなかった。それどころか、彼はその騒ぎの間に、一人でこっそり、庭の植込に這入りこんでしまったのである。そして、父が服を脱いだり、湯殿に入ったり、母がお膳の支度をして、それを座敷の縁側に運んだり、恭一と俊三とがはしゃぎ廻ったりしている様子を、じっとそこから覗いていた。
 しかし覗いているうちに、彼はだんだんつまらなくなって来た。もともと彼は、父に隠れる気など少しもなかったのだが、つい妙な機《はず》みで、こんなことになってしまった。それに、困ったことには、誰も自分が見えないのを気にかけている様子がない。かといって、今更植込の中から、のこのこ出て行くのも変だ。彼は自分が庭にいるのを、何とかして皆に気づかせたいと思った。で、父がいよいよ晩酌《ばんしゃく》をはじめた頃に、わざと足音を立てて庭をうろつき出していたのである。
 彼は母に声をかけられたときには、しめたと思った。それなら、その声に応じてすぐ出て行くのかと思うと、そうでもなかった。母の言葉は彼が素直に出て行くには、少し強すぎたのである。
 彼は母の声をきくと、すぐ、くるりと座敷の方に背を向けて立木によりかかってしまった。
「次郎ちゃん、父ちゃんが帰ったようっ。」
 恭一が彼を呼んだ。
「父ちゃんが帰ったようっ。」
 俊三がそれをまねた。
 次郎は皆の視線を自分の背中に感じていよいよ動けなくなってしまった。
「すぐあれなんですもの。……全くどうしたらいいのか、私、わからなくなっちまいますわ。」
「なあに、今日は、はじめてなもんだから、きまり悪がってるんだよ。」
「そんなしおらしい子ですと、私ちっとも心配いたしませんけど、なかなかそんなじゃありませんわ。」
「やはり家になじまないからさ。そのうち、おいおいよくなるだろう。」
「そうでしょうか知ら。」
「何しろ、あれにとつては、この家はまるで他人の家も同然だろうからね。」
「そりゃ、そうですけれど。……でも、あんまりですもの、何かお浜に強く言って聞かされて来たんではないかと思いますの。」
「まさか。……かりに言って聞かされたにしても、あんな子供に、そう巧く芝居が打てるもんじゃない。」
「すると、あの子の性質なんでしょうか。」
「性質ということもあるまいが、自然ああなるんだね、これまでのいきさつから。」
「このままでいいのでしょうか。」
「いいこともあるまいが、当分仕方がないさ。」
「まあ、貴方はのんきですわ。あたし、一刻もじっとして居れない気がするんですのに。」
「そんなにやきもきするからなおいけないんだよ。」
「では、どうすればいいんですの。」
「つまり、教育しすぎないことだね。」
「だって、私には放ってなんか置けませんわ。第一あの子の将来を考えますと……」
「将来を考えるから、無理な教育をしないがいいと言うんだよ。」
「でも……そりゃ浅ましい真似をするんですよ。人が見ていない時に、お飯櫃に手を突っこんで、ご飯を食べたりして。」
「何もかも、もうしばらく眼をつぶるんだね。それよりか、差別待遇をしないように気をつけることだ」
「そんな御心配はいりませんわ。」
「形の上だけでは、どうなり公平にやっていても、何しろこんな事は気持が大切だからね。」
「気持って言いますと?」
「つまり親としての自然の愛情さ。」
「まあ貴方はそんなことを心配していらっしゃるの。次郎だって自分の腹を痛めた子じゃありませんか。」
「自分の子でも、乳を与えない子は親しみがうすいって言うじゃないか。」
「私には、そんなことありませんわ。そりゃ教育のない人のことでしょう。」
「そうか。……ところでお祖母さんはどうだね、あれに対して。」
「そりゃ、あの子を家に呼ぶのでさえ、こころよく思っていらっしゃらなかった位ですから……」
「女は何と言っても感情的だからね。」
「すると、私もお祖母さんと同じだとおっしゃるの。」
「お祖母さんとはいくらか違うだろうが……」
「いくらかですって?……貴方は私をそんなに不信用なすっていらっしゃるの。」
「そうむきになるなよ。あれに聞えても悪い。それよりか、もう一度呼んでみたらどうだね。」
「貴方の、公平なお声で呼んでみて下すったら、どう?」
「…………」
 次郎は全身の神経を耳に集中して、二人の話を聞こうとしたが、その大部分は聞きとれなかった。聞えてもその意味をはっきり掴むことは出来なかっただろう。しかし、彼は何かしら、父が自分に対して好意を寄せているような気がしてならなかった。彼は父が今にも声をかけてくれるかと、ひそかに待っていたが、駄目だった。
 で、彼はそっと向きをかえて座敷の方を窺《うかが》った。――もうその時には、日はとっぷりと暮れて、向こうから見られる心配がなかったのである。
 父は默りこくって酒を飲んでいる。
 母はそっぽを向いて、やけに団扇だけをばたばたさせている。
「恭一、お前次郎をつれて来い。」
 だしぬけに父の声が、大きく聞えた。
 恭一は、気味わるそうに、しばらく植込をすかしていたが、しぶしぶ立ち上って、次郎の方にやって来た。
「父さんが呼んでるよ。」
 恭一は次郎に近づくと、用心深くその手首をつかんで引っぱった。次郎は、恭一に手を握られるのを、あ
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