面をすかしていたが、次郎を見つけると恐ろしい勢いで飛びついて来た。そのために次郎のもっていた提灯は、地べたに押されて、ひしゃげそうになった。
「なんてずうずうしい子なんだろう。……さあ提灯をおよこし。」
 お民は、ひったくるように提灯をとると、その中に手を突っこんで、マッチを取り出した。
 ぱっとともるマッチの火に照らされたお民の顔は、気味わるく硬ばっていた。
 どこかで、煩悩鷺《ぼんのうさぎ》がほうほうと鳴いた。
 提灯をともし終ると、お民は次郎の手を鷲づかみにして、引きずるように歩き出した。その足どりがやけに速い。次郎は、何度も引き倒されそうになったが、息をはずませながら、やっとついて行った。草履の音と、下駄の音とが騒がしく入り乱れる。
 村に這入ると、お民の足どりが急に落ちついて来た。同時に握っていた次郎の手を放した。
 村といっても、一本筋の場末町みたいなところで、駄菓子屋、豆腐屋、散髪屋、鍛冶屋、薬屋、肴《さかな》屋などが曲りくねって、でこぼこにつづいている。その間に、種油を搾《しぼ》る家が、何軒もあって、その前を通ると香ばしい匂いが鼻をうった。
 どの家からも、蚊遣《かやり》の煙がもうもうと流れ出している。次郎は、それが自分の汗ばんだ顔にこびりつくようで息苦しかった。
 家なみが途切《とぎ》れて、また一丁ばかり闇が続いた。寺である。墓地の一部が、じかに路に沿っている。古い石塔が、提灯の火で煙のように見える。
 次郎は、これまでお浜につれられて、夜ここを通る時には、非常に怖いところだと思っていたが、今日はそんな気がちっともしなかった。むしろ、ほっとしたような気にすらなった。そして、この墓地を通りすぎて明るいところに出ると、間もなく自分の連れて行かれる家があるのだ、と思うと、彼はいつまでも暗いところにじっとしていたかった。彼は急にぴたりと足をとめた。
「おやっ。」
 暗いところに来て、再び足どりがせっかちになっていたお民は、次郎の草履の音が急に聞えなくなったので、ぎょっとして振りかえった。
「どうしたというんだよ。」
 彼女は、提灯をさし上げて闇をすかした。しかし、次郎はすでにその時、路に近い大きな石塔のかげに身をひそめていたので、お民はどこにも彼の姿を見出すことが出来なかった。
「次……次郎っ。」
 お民は、半ば嗄《しわが》れた声で、そう叫びながら、提灯をさし上げて、一間ばかりのところを往ったり来たりした。しかし、墓地に這入って探してみようとは決してしなかった。次郎は、石塔のかげから、じっとその様子を見守っていた。すると提灯の火は、間もなく、ぶかぶかと闇を走って、一丁ほど先の家なみの明るい中に消えていった。
 次郎の心はしいんとなった。同時に、蚊がぶんぶんと自分の体のまわりにたかって来るのを感じた。
 彼は、しかし、これからどうしていいのか、少しも見当がつかなかった。彼の心からは、すべての人間が見失われて、足をはこぶ目当がなくなっていた。彼は墓石に腰をおろしたまま、じっと闇を見つめた。
 十分あまりの時間が、蚊のうなり声の中ですぎた。
「もう逃げて行ったのかも知れないが、ちょっとそこいらを見ておくれ。」
 お民の声である。
「この中をですかい。まさか子供一人で……」
 直吉らしい。
「でも、いやに押しの強い子供だから、居るかも知れないよ。」
「そうでしょうか。」
 どしんどしんと足音がして、提灯の火が次郎の目の前にゆれて来た。
「あっ、居たっ。」
 一間ほどおいて、提灯はぴたりと止まった。容易に近寄ろうとはしない。声の主はたしかに直吉である。顔はよく見えない。
「居たら、引っぱり出したらいいじゃないかね。」
 お民の声が鋭く路から響く。
「次郎さん、そんなことをして、馬鹿だね。」
 直吉はおずおずと寄って来て、次郎の手をとった。
 それからあと、次郎は何が何やらわからなかった。彼はお民と直吉に両手を握られて、ぐんぐんと明るいところに引っぱられて行った。
 彼が自分を取りもどして、自分の周囲《しゅうい》を見まわすことが出来たのは、広い座敷の真ん中に坐らされて、先生のような態度をしたお民から、さんざん説教をされている時であった。

    五 寝小便

 お民は存分説教をしたあと、少しばかりの駄菓子を紙に包んで、次郎の手に握らせた。それは彼女の教育的見地からであった。しかし次郎は決してそれを口にしなかった。彼が寝床に這入ったあとでも、その紙包は、ぽつんと部屋の真ん中に置かれたままであった。
 お民の右側に恭一、左側に俊三が寝た。次郎の寝床は俊三のつぎに並《なら》べて敷かれてあった。
 次郎は永いこと眠れなかった。そのうちに、そろそろ小便を催《もよお》して来た。
 お浜の家では、寝しなには、きっと便所に行く習慣だったが、今夜はいろいろと事情がちがっていたために、ついそれを怠っていたのである。彼は苦しくなるにつれて、多少それを悔いた。しかし、起き上って便所に行く気にはなれない。ここの便所は廊下づたいで少し遠すぎるし、それに、どこかで鼠がかさこそと音を立てていて気味がわるい。
 そのうちに、彼はふと妙なことを思いついた。そしてぱっちりと眼をあいて母の方を覗いて見た。蚊帳の中は真っ暗で見えないが、よく寝ているらしい。彼は寝返りをする真似をして俊三によりそった。そして永いことこらえていた小便を、その脇腹のあたりに少しずつ放射した。
 放射が終るとまたもとの位置にかえって、心地よくぐっすりと眠ってしまった。
 どのくらい眠ったのか、はっきりしなかったが、彼は、だしぬけにお民に両足を掴まれて蚊帳の外に引き出されたので、眼がさめた。部屋の中はまだ真っ暗だった。彼はさかさにつり下げられているような気がして、眼を覚ました瞬間は、まるで世界の見当がつかなかった。
「何という情ない子だろう。もう六つにもなって。」
 同時に彼の腰から下が、どたりと畳の上に落ちた。右足のくるぶしの落ちた辺が、丁度敷居の上だったらしく、ごつんと音がして、かなり強い痛みを覚えた。
 彼はしかし、まだ眼がさめないふりをして、そのまま動かなかった。しばらく沈默がつづいた。
「まあ、あきれた子だね。」
 お民は平手で、三つ四つ彼の臀《しり》を叩いた。それでも彼は、小豚の死骸のように転がったままでいた。そのうちに燈火がぱっと灯った。瞼を透して来る赤い光線の刺激で、おのずと眉根がよる。
「ううーん。」
 次郎は寝返りをうつ恰好をして、光線をよけた。
「次郎、お前、寝たふりをする気かい。……よろしい。いつまでもそうしておいで。」
 お民は、燈火をつけ放しにしたまま、そう言って蚊帳の中に這入った。あたりがしいんとなる。蚊のうなり声が、急に次郎の耳につき出した。と思うと、もう体じゅうがちくりちくりとやられている。
 お民は、まだきっと蚊帳の中から自分を覗いているに相違ない。――そう思うと、自由に動くわけにもゆかない。彼はつらかったが辛抱した。
 そのうちに彼はまた一つの智恵を恵まれた。それは、寝返りをうつ真似をしてだんだんと蚊帳の中にころがり込むことだった。彼は蚊帳に近づくまでは、かなり巧みにそれを実行した。しかし、いざ蚊帳の裾《すそ》をまくるという段になって彼は当惑《とうわく》した。あまり手を使いすぎると、眼をさましていることが発覚しそうである。彼は先ず頭の方から這入る計画を立てた。しかし、何度転んでみても、いつも頭が蚊帳の裾に乗っかって、うまくいかない。で、今度は足の方から這入ることにした。これも容易には成功しなかったが、それでも頭ほどに不便ではなかった。それは、下駄を穿《は》く時の要領《ようりょう》で、うまく足指を使うことが出来たからである。
 こうして、ともかくも、彼は腰の辺まで蚊帳の中に這入ることが出来た。蚊の襲撃《しゅうげき》から完全に遁《のが》れるためには、あとわずかな努力が残されているのみであった。彼はその努力の機会をねらって、一息入れながら、かすかに眼を開いて母の様子をうかがった。
 すると、どうだろう、蚊帳の内側では、母がきちんと坐って、眼を皿のようにして自分の方を見つめているではないか。
 次郎はもうこれ以上身動きしてはならないと思った。
 実は母に覗かれているという意識があったればこそ、こんな手も使ったのであるが、こうまともに見られているのだとは、夢にも思わなかったのである。
 しかし、その間にも、蚊は容赦なく彼の上半身を襲って、彼の忍耐力に挑戦した。彼はそのたびに思わず芋虫のように体を左右にまげた。そして最後にとうとう両手を使って、一挙に蚊帳の裾を頭の方に引っぱってしまった。
「次郎や。」
 この時、気味わるく落ちついた母の声が、彼の耳をうった。
「お前、誰にそんな芸当を教わったの。」
 次郎は返事をする代りに、軽い鼾をしてみせた。
「次郎ったら。」
 母の声は急に鋭くなった。次郎はびくっとしたが、今更どうすることも出来なかった。すると次の瞬間には、お民の指が彼の耳朶をつかんで、再び彼を蚊帳の外に引きずった。
 次郎は、かつて直吉の耳朶に、全身の重みを託そうとしたことがあった。しかし、自分自身の耳朶に自分の体を託した経験は、全くはじめてである。彼は思わず悲鳴をあげた。両手は思わず母の手を握った。それで耳朶の痛みはいくらか減じたが、その代りらくらくと蚊帳のそとに引きずり出されてしまったのである。
「そこに夜どおしで、そうしているんだよ。」
 母はあらあらしい息づかいをしながら、寝床に這入った。
 次郎の眼からは、ぼろぼろと涙がこぼれた。しかし彼は喉《のど》にこみあげてくる泣き声を、じっと噛み殺した。そして、とうとう夜があけるまで、蚊にさされなから、蚊帳の外を芋虫のようにころげまわっていた。

    六 飯びつ

「ご飯だよ。」
 翌朝次郎が、ぽつねんと人気《ひとけ》のない座敷の縁に腰をかけて、庭石を見つめていた時に、台所の方から母の声がきこえた。しかし、彼は動かなかった。それは、その声が彼を呼んでいるようには聞えなかったし、かりに彼を呼んでいるとしても、そんな遠方からの呼び声に応じて出て行くのが変に思えたからである。
 やがて、家じゅうの者が茶の間に集まったらしく、話し声が賑やかになり、茶碗《ちゃわん》のふれる音や、鍋をかする音などが聞えて来た。
 次郎は、誰かが気づいて自分を呼びに来るのを、心待ちに待っていた。しかし、呼びに来ても、飛びついて行くようなふうは見せたくない、と思っていた。
 ところが、十分経っても、二十分経っても、誰も彼を呼びには来なかった。そして、そのうちに、恭一と俊三とは、すでに飯をすましたらしく、口端を手でこすりながら彼の方に走って来た。
「ご飯どうして食べない。」
 恭一は次郎のそばまで来るとたずねた。次郎は庭の方を見たきり、振り向こうともしなかった。
「ご飯たべない、ばかあ――」
 俊三の声である。次郎はそれでも默っていた。すると俊三は、ちょこちょこと寄って来て、うしろから片手を次郎の肩にかけ、その耳元で、
「馬鹿やあい。」
 と言った。次郎はいきなり右|臂《ひじ》で俊三を突きのけた。俊三はよろよろと縁をよろけて、敷居に躓《つまず》き、座敷の畳の上に仰向けに倒れた。
 彼の泣き声は、家じゅうに響き渡った。
 お民が出て来て、恭一に言った。
「どうしたんだえ。」
「次郎ちゃんが突き倒したんだい。」
「次郎が? どうして?」
「僕知らないよ。」
 恭一は神経質らしく、お民と次郎とを見比べながら答えた。
 お民は、しばらく次郎をうしろからじっと睨めつけていたが、何と思ったのか、そのまま俊三を抱き起こして、茶の間の方に行ってしまった。
 恭一もすぐそのあとについた。
 次郎は、また一人でぽつねんと庭を眺めた。
 そのうちに、彼はゆうべの寝不足のため、うつらうつらし出した。そうしてとうとう縁側から地べたにすべり落ちてしまった。
 幸いに大した痛みを覚えなかった。彼は起き上ってあたりを見まわしたが、誰もいなかったので、安心した
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