は》ねるように起き上った。そして、まっしぐらに学校の方に走り出した。
 ものの半丁ばかりは、まるで夢中だった。しかし彼は、直吉が追っかけて来るかどうかを確かめずには居れない気がした。で、走りながら、一寸うしろを振り向いた。すると直吉は、両手で耳朶を押さえながら、うらめしそうにこちらをにらんで立っていた。
 次郎はいくらか安心した。同時に、ちらと見た直吉の様子が妙に恐ろしくなった。そして、急に名状しがたい悲しさがこみ上げて来た。彼は、走りながら、精一ぱいの声を出して泣き出した。
 校門までくると、そこにはお浜が身を忍ばせるようにして、彼を待っていた。彼はもう一度大声をあげて泣きながら彼女に飛びついた。お浜は默って身をこごめながら、彼に頬ずりした。
 次郎の涙は、そろそろ甘いものに変っていった。そして心が落ちつくにつれて、彼はお浜に抱きついている自分の両手の指先が、妙にぬるぬるするのに気づき出した。彼は涙のたまった眼をしばだたきながら、そっと指先をのぞいて見た。血だ。どす黒い血のかたまりだ。
 彼は、それをお浜に見られてはならないような気がした。で、甘ったれた息ずすりをしながら、そっと指先をお浜の着物になすりつけてしまったのである。

    四 提灯

 耳たぶ一件以来、次郎の警戒心《けいかいしん》は急に強くなった。たといお浜と一緒であっても、もし彼女が校門を出て南の方角に行きそうになると、彼はすぐ握られた手を振り放した。また彼は、それっきり、どんなに誘いをかけられても、よその人におんぶされたり、その肩車に乗ったりはしなくなった。
「もうそんなことをするのが恥ずかしいんですよ。やっぱり年が教えるんですね。」
 お浜は、よくそんなことを得意らしく言っては、次郎の警戒心の言訳をしなければならなかった。
 お民の方からは、それ以来、三日にあげず、いろいろの人が次郎を迎えに来た。中には、お浜が飯米欲しさに次郎を手放したがらないのだ、といったような口吻《くちぶり》をもらして、彼女を怒らすものもあった。
 お浜にして見ると、次郎を手放すのはつらいには、つらかった。しかし、次郎がさきざき実家でどんな立場に立つだろうかと考えると、内心不安を感じずには居られなかったので、お民からの使いに対しても、ひどく反感を持つようなことはなかった。むしろ、最近では、なぜもっと早く次郎をかえしてしまわなかったろうかと、それを後悔しているくらいであった。
 ことに、飯米欲しさに次郎を手放さない、などと言われることは、彼女の気性として、我慢の出来ないことであった。そんな時には、ついかっ[#「かっ」に傍点]となって、次郎を、使いに来た人の方に無理に押しやるような真似をすることさえあった。しかし、次郎に泣きつかれたり、逃げられたりすると、いつもそのままになってしまうのであった。
 ところが、ある晩だしぬけに、お民自身が迎えにやって来た。これはお浜も全く予期しなかったことであった。
 次郎は、その時、もう寝床に這入っていた。真夏のころで、寝床といっても、茣蓙《ござ》一枚だった。むれ臭い蚊帳のそとでは、蚊が物すごい唸《うな》りを立てていた。
 次郎のそばには校番の弥作《やさく》爺さんが寝ていた。――爺さんは、人を笑わせるような短い話をいくつも知っていたので、次郎は、この頃、お浜のそばよりも、爺さんのそばに寝るのが好きになっていたのである。
 爺さんは、ゆっくりゆっくり話をすすめながら、おりおり大きな欠伸《あくび》をした。すると、そのたんびに、しょぼしょぼした眼尻から、ねばっこい涙がたらたらと流れ出して、耳の方にはっていった。次郎は、指先で、自分の好きな方向に、涙に道をつけてやるのが、また一つの楽しみであった。
 その楽しみの最中に、お民がやって来たのである。
 彼女は中には這入って来なかった。しかし、次郎は、声を聞いただけで、すぐそれが誰だか、そして何の用で来たかが、はっきりわかった。彼は小さい胸をどきつかせながら、眠ったふりをして耳をすました。
 話し声は、戸外の縁台から、団扇《うちわ》の音にまじって聞えて来る。
「そりゃ、私だって、今では一日も早くおかえししたい、とは思っていますが……」
 お浜の声である。
「やっぱり帰ろうとは言わないのかい。」
「ええ、ちょいと門を出るのでさえ、このごろでは、おずおずしていらっしゃるようで、そりゃおかわいそうなんですの。」
「でも、私から、じかに言って聞かしたら、納得《なっとく》しないわけはないと思うのだがね。」
「そうだと結構でございますが……」
「親身の親が言ってきかしても、駄目だとお言いなのかい。」
 と、少しとげのあるものの言いかたである。それが次郎にもよくわかる。
「そりゃ、仕方がございませんわ。」
 お浜の突っ張る声。次郎はそれでいくらか気が強くなる。
「困った子になってしまったわ。」
 次郎は、胸のしんに異様な圧迫を感じた。お浜は返事をしない。しばらくは、団扇の音だけが、ばたばたと聞える。
「とにかく、今夜はどんなことがあっても、つれて帰るつもりでやって来たんだからね。……まだ寝ついてはいないんだろう。」
 急に団扇の音がやんで、誰かが立ち上るような気配《けはい》がした。
 次郎は唾《つば》をこくりとのんで、爺さんの方に寝がえりを打った。そして鼾《いびき》をかくまねをした。しかし、彼の瞼《まぶた》はぶるぶるとふるえて、心臓の鼓動が乱調子なのを物語っている。
「明日になすったらどうでしょう。こんなに暮れてからでは、余計おかわいそうですわ。」
「何時だって同じさ。まさか怖いことはあるまいよ。男の子だもの。」
「でも、こんなことは、やっぱり昼間の方がようございますわ。明日になったら、今度こそ本当にご得心《とくしん》がいくように、私から申しましょうから。」
「駄目よ、お前では。……いつも、あべこべに引きとめるようなことばかり、言って聞かすんだろう。」
「そんなことはありませんわ。とにかく明日までお待ち下さいまし。私もほんとうに腹をきめているのですから。」
 次郎は淋しかった。彼の鼾はふるえがちであった。
「どうだか……」お民は、もう敷居をまたいでいるらしい。次郎の鼾はひとりでに止ってしまった。
「おやおや、奥さんでいらっしゃいますか。」
 爺さんが、褌《ふんどし》一つの皺だらけの体をのろのろと蚊帳の中で起した。
「坊ちゃん、おっ母さんだよ、ほら。」
 爺さんの手が次郎の肩をゆすぶる。
「ううん。……ううん。」
 次郎はもう一度寝返りをうって、自分の顔をお民からかくした。彼の耳は、その間にも、鋭敏に周囲を偵察《ていさつ》している。
 しかし、彼のあらゆる努力は結局無駄に終った。次の瞬間には、お民の手が蚊帳の中に伸びて来て、有無《うむ》を言わせず、彼の体をずるずると板の間に引き出してしまったのである。
「まあ、そんなに乱暴になさらなくても……」
 お浜の少し怒りを帯びた声が、戸口から聞えた。もうその時には、次郎は、まる裸のまま板の間にすわって、眼をこすったり、腕を掻いたりしていた。
 彼は泣かなかった。諦《あきら》めとも悲壮な決心ともつかないようなものが、この時、彼の心を支配したのである。
「奥さん、どうなさいますので……」
 そう言って、爺さんは蚊帳の中からのそのそと出て来た。そして次郎にたかって来る蚊を、団扇でおってやった。
 戸外の縁台からは、お浜のあとについて、お作婆さんや、勘作や、お兼や、お鶴が、ぞろぞろと這入って来た。みんな土間に突っ立ったまま、默りこくってお民と次郎とを見くらべている。その中で、お浜の眼だけが、かなり険しく光っていた。ほかの人達は、ただあっけにとられたといったふうであった。
 それからお民は、女教師のような口吻で、何やらながながと次郎に話して聞かした。しかし、それは次郎の耳にはほとんど一言も這入らなかった。彼は、その間、お浜の表情だけを、注意深く窺《うかが》っていた。その表情から、彼は彼女が本当に自分を実家に帰してしまう気でいるかを読みたかったのである。しかしお浜の眼は、険しく光って、じろじろと彼とお民とを見くらべているだけで、彼には何の暗示も与えなかった。
「わかったね。」
 と、お民は、長い説教のあとで、念を押すように言った。次郎はそれに対して、無表情にうなずいた。
 彼は心の中で、この時、自分の眼の前に二人の敵を見ていたのである。一人は正面の敵であるお民、もう一人は、裏切者としてのお浜であった。
「裸ではしようがないわ、何か着物を着せておくれよ。」
 正面の敵が裏切者を顧みて言った。しかし、裏切者は、相変らず険しい眼付をしたまま動かなかった。
 次郎は、横目で裏切者の顔をちらとのぞいたが、その顔からは何の合図もなかった。彼は捨鉢のような気になって、急に立ち上ると、蚊帳の隅にくたくたにまるめてあった汗くさい浴衣を自分で着て、くるくると帯をしめた。
「偉いね。」
 と、正面の敵が言った。
 次郎は上り框の下にうつ伏しになって、自分の草履を探しながら、眼がしらの熱くなるのを、じっとこらえた。
 その間に、お民は提灯《ちょうちん》に火を入れた。
 二人が戸口を出る時、みんなは、芝居の幕が下りるときのように、静かであった。ただ、お作婆さんだけが、両手を腰に組んで、二人のあとを、一間ほどはなれ、校門のところまでついて来て、言った。
「坊ちゃん、さようなら。」
 次郎は、しかし、ふり向きもしなかった。彼はあふれ出る涙を歯でかみしめて、お民のあとに従った。
「怖かあないかい。」
 一丁ほど行った時に、お民が言った。その時次郎はお民の左うしろについて歩いていた。
 次郎は返事をしなかった。やや湿《しめ》りを帯びた彼の草履《ぞうり》が、闇の中でぴたぴたと異様な音を立てた。
「怖けりゃ、先においで。」
 次郎は、ちっとも怖くはなかった。しかし、言われるままに、小走りしてお民のさきに立った。自分の体が、お民の提《さ》げている提灯のあかりを路一ぱいに遮ぎって、前が真っ暗になる。左右の稲田が、ぼうっと明るく、両方の眼尻にうつる。眼尻にうつるというよりは、じかに脳髄《のうずい》に映ると言った方が適当である。
「先に行くなら、提灯をお持ち。」
 次郎は提灯を持った。提灯は弓張りだった。あたりまえに提げると、その底が地べたをこするので、彼は手首を胸の辺まで上げていなければならなかった。
 彼の草履の音がぴたぴたと鳴る。それが、ともすると、お民には妙な方向から響いてくるように思える。
「次郎、お前やっぱり後からお出で、足が速すぎていけないよ。」
 次郎は提灯をまたお民に渡して、うしろから草履の音をぴたぴたと立てる。
「向こうから誰か来るようだね。」
 お民はだしぬけにそう言って立ちどまった。次郎も一緒に立ちどまったが、しんとして人の来る気配はない。
「僕、先に行ってみるよ。」
 次郎は、変に皮肉な気持になって、提灯を母の手からとると、小走りに走り出した。
「次郎っ。」
 お民の声は、少しふるえていた。次郎は二三間先に立って、提灯を上げたり下げたりした。その拍子に、ふっと灯が消えて、闇がのしかかるように二人を圧さえた。
「まあ、次郎。」
 お民の声は、すっかりおびえ切っている。
 次郎は、闇をすかしながら、道の端っこにしゃがんだ。
「次郎、次郎や、どこにいるの。」
 次郎は息を殺した。そして、逃げ出すなら今だと思った。
 しかし、彼は立ち上らなかった。それは、お民が、その時、すぐそばに立っているからばかりではなかった。彼は、お浜のことを思い浮かべてみても、いつものように心が熱くならなかったのである。彼は真っ暗な中に、ぽつんと淋しくしゃがんでいた。
「次郎や、次郎ったら。」
 お民の声は、妙にすごかった。恐怖と怒りとがごっちゃになっているような声だった。次郎はそれでも身じろがなかった。そして、お民の口から漏れる烈しい息づかいに、じっと耳をすましていた。
 そのうちに二人の眼が、だんだんと闇になれて来た。お民は浮き腰で地
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