れも知りたかった。で、彼は、学校は三十分もかからないところだし、出来れば一寸でも出てみたい、と思わないではなかった。しかし、お民はこの数日、次郎の姿が見えないと、不思議なほど寂しがった。そして彼に薬をのませて貰ったり、手を握っていて貰ったりするのを、何よりの楽しみにしているらしかった。飲みたくない薬でも、次郎の手からだと、喜んで口にするというふうだった。
 次郎にしても、母のその気持には、こみあげて来るような喜びを感じた。彼は、母を看護することによって、彼がかつて知らなかった純な感情を昧うことが出来た。彼の行為は、少くとも母の枕頭でだけは、偽りも細工もない、ひたむきなものになっていた。で、竜一に会ってみたいという気持も、彼を何時間も病室から引きはなしておこうとするまでには強く仂かなかった。
 お民は、いよいよいけなくなる四五日前、枕元に坐っていた次郎の顔をまじまじと見ていたが、その眼を正木のお祖母さんの方に向けて言った。
「お浜の居どころはわかりましたか知ら。」
 次郎は、このごろ、お浜のことはほとんど忘れていた。彼には「お浜」という言葉が、全く耳新しくさえ響いた。それに、彼の記憶に残っている限りでは、母とお浜とは、仲のいい間柄ではなかった。だから、母のその言葉を聞いた時には、彼は喜ぶというよりもむしろ不思議に思ったくらいであった。お祖母さんは答えた。
「ああ、そうそう、まだお前には言わなかったのかね。何でも、駐在所の方に頼んで調べて貰ったので、よくわかったんだそうだよ。やっぱり今でも炭坑で仂いているんだとさ。」
「では、呼んで貰いましょうか知ら。」
「そうかい、是非会いたけりゃ、すぐにでも呼べるんだがね。でも、お前大丈夫かい。ひさびさで会って、気が立ったりしては、病気に悪いんだがね。」
 実は、お浜には二三日前に、すでに正木の老人から手紙が出してあり、まさかの時には電報を打つから、すぐ来るようにと、必要な旅費まで送ってあるのだった。お祖母さんはそれをお民にかくしていたのである。
「大丈夫ですわ。」
 お民はにっこり笑って、また次郎を見た。
 電報がすぐ打たれた。次郎はそれから妙に浮き浮きしだした。しかし、それは嬉しくてたまらないからではなかった。嬉しいには嬉しいが、その奥に不安とも、好奇心ともつかぬ、えたいの知れないものが動いていた。彼は自分の落着かない気持を自覚して、それを母に見せまいとつとめたが、彼の動作はいつもそれを裏切った。彼は用もないのに、部屋を出たり入ったりした。薬の時間でもないのに、ひょいと薬壜《くすりびん》をとり上げ、その目盛をすかして見たり、栓をぬいてみたりした。また、ぽかんとして庭を見つめていて、急に気がついたように母の顔をのぞいたりした。お民は彼のそんな様子を見ながら、いつも微笑していたが、彼はその微笑にでっくわすと、よけいにそわそわした。
 お浜は、電報を受取ってすぐたちさえすれば、翌日の夕方までには着くはすであった。次郎はお祖母さんの言葉でそれを知っていた。しかし彼は、その時刻になっても病室に落ちついていて、お浜のつく時間なんか忘れているかのように見えた。そのくせ、彼の言ったり、したりすることは、とんちかんなことが多かった。彼の頭の中は、もうお浜で一ぱいであった。眼の前にお浜の顔が始終現れたり消えたりした。それはさほど鮮明ではなかったが、かえってそのために、彼はまぼろしの中に吸いこまれるような気持だった。
「次郎ちゃんの乳母やが来たよう。」
 誠吉が跣足で庭をまわって来て、そう言うと、またすぐ走って行った。
 次郎は思わず立ち上りそうにしたが、強いて自分を落ちつけた。
「早く迎えておいでよ。」
 祖母と母とがほとんど同時に言った。次郎はそれですぐ立ち上ったが、さほどせきこんでいるふうには見えなかった。それでも、母屋に行くまでの彼の足が宙に浮いていたことは、彼自身が一番よく知っていた。
 お浜はもう茶の間に坐って、正木の老人とお延を相手に話していた。誠吉やそのほかの従兄弟たちは、土間に立って、珍しそうにその様子を眺めていた。次郎がはいって行くと、お浜は持っていた団扇を畳に置いて、中腰になりながら、
「まあ。」と叫んだ。その叫声には、ほとんど喜びの調子はこもっていなかった。それは異様なものを見た驚きの叫びだった。次郎の火傷のあとのまだらな皮膚の色が、彼女をびっくりさせたのである。
 お延がそれに気がついてすぐ説明し出した。説明をききながらも、お浜は何度も次郎の顔に目を見張った。次郎はお祖父さんのそばに坐って、まぶしそうにその視線をよけていた。
 説明を聞き終ると、お浜は眉根をよせて次郎の方に膝をのり出しながら、
「以前からおいたでしたが、今でも相変らずね。でも、大したことにならないで、ようございましたわ。」
 彼女は、次郎と自分との間に二三尺の距離があるのがもどかしそうであった。次郎は、しかし、お客にでも行ったように行儀よく坐って、固くなっていた。彼のこの時の気持は実に変てこだった。彼の前に坐って物を言っているのは、なるほど三年前に別れた乳母やにはちがいない。しかし、同時に全く別人のような気もする。それはちょうど、着なれた着物を一度しまいこんで、久方ぶりにまた取り出して着る時のような感じである。
 お浜は、たてつづけにいろんなことを彼にたずねた。彼は、しかし、ただ「うん」とか「ううん」とかいう簡単な返事をするだけであった。その簡単な返事ですら、いつものように自然には出なかった。時とすると、はじめて人に対するような、ていねいな返事をしそうになることさえあった。
「お民も待ちかねているようだから、では、ちょいと顔を見せておいてくれ。次郎、お前乳母やを母さんのところへつれておいで。」
 お祖父さんは、ひととおり二人の問答がすんだところで、言った。二人はすぐ立ちあがった。
 病室に行く途中、お浜は次郎の肩《かた》を抱《いだ》くようにして歩いた。
「すいぶんお脊が伸びましたわね。」
 次郎は、急に以前の気持がしみ出て来るような気がした。そして、自分の方から何か口を利いてみたいと思ったが、急にはうまい言葉が見つからなかった。
 病室にはいると、お浜はお祖母さんには挨拶もしないで、いきなり病人の枕元《まくらもと》に坐った。やはり次郎の肩に手をかけたままだったので、次郎も一緒に坐らなければならなかった。彼女は坐ったきりうつむいてしまって一言も言わなかった。次郎は彼女の膝にぽたぽたと涙が落ちるのを見た。
「まあ、よく来てくれたね。」
 お祖母さんの方からそう挨拶されて、お浜は、急いで涙をはらいながら、笑顔を作った。そして、
「ほんとに申訳もないご無沙汰をいたしまして。……ご病気のことなど、ちっとも存じませんものですから。」
 二人の間には、それからしばらくいろいろのことが話された。お民もちょいちょいそれに口を出した。話は大ていお互いのその後のことについてであった。次郎はそれによって、弥作爺さんが死んだこと、お兼がもう奉公に出て、いくらかの金を貢《みつ》ぐこと、お鶴が学校で優等賞を貰ったことなどを知った。次郎は、古い校舎の片隅の校番室の様子を思い出しながら、それをきいた。本田の引越しの理由や、次郎とお民が正木に来ているいきさつなどは、ごくあいまいにしか話されなかった。お祖母さんは、
「子供がだんだん大きくなって、中学にはいるようになると、何かにつけ町に住む方が都合がよさそうだよ。」
 とか、
「次郎は、お前の手をはなれてから、半分はここで育ったようなものだから、お祖父さんが手放そうとなさらないのでね。」
 とか、
「お民の病気には、何といっても田舎の空気がいいのだよ。」とか言って、すべてをぼかしてしまっていた。しかしお浜には何もかも推察がついたらしく、彼女はおりおり溜息をついて、次郎の顔を見た。次郎はそのたびに、何か知ら窮屈《きうくつ》な感じがした。
 双方の話が一段落ついたころに、お民はふとお浜の方に顔をむけ、しみじみとした調子で言った。
「お浜や、わたしお前に会えて、すっかり安心したよ。」
「まあ勿体ない――。」と、お浜はもうあとの言葉が出なかった。お民はしばらくしてから、
「次郎も大きくなったでしょう。」
「ええ、ええ。さっきもびっくりしたところでございます。」
「あたし、この子にも、お前にも、ほんとうにすまなかったと思うの。」
「まあ、何をおっしゃいます。」
「子供って、ただ可愛がってやりさえすればいいのね。」
 お浜には、お民の言っている深い意味がわからなかった。しかし、気持だけはよく通じた。
「あたし、それがこのごろやっとわかって来たような気がするの。だけど、わかったころには、もう別れなければならないでしょう。」
「まあ、奥様――」
「あたし、死ぬのはもう恐くも何ともないの。だけど、この子にいやな思いばかりさせて、このままになるのかと思うと……」
「そんなことあるものでございますか。」
「あたし、このごろ、いつもこの子に心の中であやまっているのよ。」
「まあ、――まあ、――」
 次郎は、もうその時には、うつむいて涙をぽたぽた落していた。
「でもね、この子もどうやらあたしの気持がわかってくれているようだわ。あたし、何となくそんな気がするの。それでいくらかあたしも安心が出来そうだわ。……でも、お前にも一度あやまっておかないと、気がすまなかったものだからね。」
「まあ、とんでもない。」と、お浜は袖口を眼にあてて、
「坊ちゃん……まあ何て坊ちゃんはお仕合せでしょう。お母さんにあんなに思っていただくんですもの。外に坊ちゃんを可愛がっていただく人が、だあれもいなくても、もうこれからは大丈夫ですわね。……たった一人ぽっちになっても、きっと、きっと坊ちゃんは誰よりも正直な、お偉い人になれるでしょう。」
 次郎はだしぬけにお浜の膝にしがみついて、顔をおしあてた。惑乱《わくらん》と寂寥《せきりょう》とが、同時に彼の心を捉《とら》えていた。「ひとりぽっち」という言葉が異様に彼の胸に響いたのである。
 お民の眼からも涙が流れていた。
 お浜は、次郎の背をなでながら、
「でも一人ぽっちになんか、なりっこありませんわね。お父さんがいらっしゃるし、こちらのお祖父さんやお祖母さんもいらっしゃるんですから。それにあたしだって、遠くからいつも坊ちゃんのこと神様にお祈りしていますわ。」
「次郎や、――」と、お民はぬれた眼をしばだたいて、じっと何かを見つめながら、
「あたしは、乳母やよりもっと遠いところから、きっと次郎を見ててあげるわよ。だから、……だから、……腹が立ったり、……悲しかったりしても、……」
 そのさきは息がはずんで、誰にも聞きとれなかった。お祖母さんは、さっきから鼻をつまらせて二人の話をきいていたが、
「今日はもう話すの、およしよ。そう一ぺんに話して疲れるといけないから。」
「ええ、よしますわ。……ああ、あたし、これでせいせいしました。」
 そう言ってお民は眼をとじた。
 その晩は、むろん次郎とお浜とは同じ蚊帳の中に寝た。お浜は、暑いのに、夜どうし次郎の肩に自分の手をかけては、引きよせた。次郎は、自分の手先がお浜のたるんだ乳房にさわるごとに、はっとして寝がえりをうった。彼はよく眠れなかった。それはお浜に引きよせられるからばかりではなかった。このごろ彼の胸にはっきり映り出した母の澄みとおった愛と、ひさびさでよみがえった乳母の芳醇《ほうじゅん》な愛とが、彼の夢の中で烈しく熔けあっていたからである。

    三九 母の臨終

 お浜に会ってからのお民は、不思議なほど静かに眠った。それは、興奮のあとの疲労というよりは、すべてを処理し終ったあとの安心から来る落ちつきであった。しかし、それと固時に、冷たい死は刻々に彼女に近づきつつあったのである。
 翌日は、医者の注意で、電報や使いが方々に飛ばされた。午すぎには、本田から俊亮が恭一と俊三とをつれてやって来た。その日は、しかし、幸いにして何事もなかった。お民は、眼をさましては周囲
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