るんじゃないよ。」
次郎はおとなしくうなずいた。
「お祖父さんにはもうあやまって来たのかい。」
次郎ははっとした。彼は、これまでみんなが彼に同情的な言葉ばかりかけてくれていたため、自分の方から誰にもあやまって出なくてもいいような気になってしまっていた。しかしお祖母さんにそう言われてみると、やはり自分の方からあやまって出るのが本当だ。お祖父さんが口を利いてくれないのも、或いは自分があやまって出ないためではなかろうか。そう思って彼はお祖母さんの顔を覗きながら答えた。
「ううん。」
お祖母さんは、しかし、それっきり默ってしまった。そしてお民と眼を見合わせた。お民はお祖母さんからすぐ視線を転じて次郎を見たが、やはり口を利かなかった。
次郎はすぐ一切を悟った。
(みんなは自分がお祖父さんにあやまって出るのを待っているのだ。それは彼らの間に、もうすっかり話し合いが出来ているらしい。)
そう気がつくと、彼はすぐ立ち上った。むろん彼はこれまで、叱言を言われない先に自分から進んで誰にも謝罪をした経験がなかった。だから、ちょっと勝手がちがうような感じだった。しかし彼は、もう一刻もぐずぐずしている時ではないように思ったのである。
お祖父さんは、座敷の縁で、謙蔵を相手に何か話していた。次郎は思いきってそばに行き、窮屈そうに坐った。そして何にも言わないで手をついて、お辞儀をした、すると、お祖父さんはすぐ言った。
「ほう、あやまりに来たのか、それでいい、それでいい、それでいい気持になったじゃろう。どうじゃ。」
次郎の眼からは、ぽたぽたと涙が縁板にこぼれた。
「泣くことはない。泣くと、繃帯がぬれるぞ。それに、顔がゆがんでしまったらどうする。はっはっはっ。」
お祖父さんの笑声につれて、謙蔵も笑った。次郎は、しかし、いつまでもうつむいて、鼻をすすっていた。
三七 母の顔
真夏に、顔全体を繃帯で巻き立てているのは、かなりつらいことであった。また、そのためにかえって化膿《かのう》したりする恐れもあったので、二三日もたっと、薬だけが紙にのばして貼られることになった。
繃帯をかけない次郎の顔は、まことに見苦しかった。自身鏡をのぞいて見て、ぞっとしたほどであった。黄いろい薬の間から、ところどころに赤黒い肉がのぞいていて、眉のところがのっぺりしている。彼はおりおりこの村に物貰いにやって来る癩《らい》病患者の顔を思い出した。そして、どんなに暑苦しくても繃帯を巻いている方がいいとさえ思った。
東京に行っている竜一から、ある日絵はがきが来た。それには、春子からも「お土産を待っていらっしゃい」と書きそえてあった。次郎は非常に喜んだ。しかし、すぐ自分の顔の見苦しさを思った。そして、二人が帰って来るまでに、あたりまえの顔になれるだろうかと心配した。
夏休みもあと十日ほどになったころには、薬を塗らなければならない部分は、鼻がしらと頬の一部だけになった。しかし、治った部分も、赤く、てかてか光っていて、当分は普通の色にもどりそうになかった。次郎自身には、薬を塗っている時よりも、かえって無気味にさえ思えた。
彼の火傷《やけど》が治って行くのとは反対に、お民の病気は次第に重くなって行った。喀血《かっけつ》がないので急激な変化は見せなかったが、暑気がひどくこたえたらしく、衰弱が日ましに加わって行くのが誰の眼にも見えた。
俊亮は、これまで大てい一週に一度は顔を見せていた。しかしどういうわけか、恭一や俊三をつれて来ることはめったになかった。夏休みになったら、すぐにもつれて来てゆっくりさせるのだろうと、次郎も期待し、正木一家でもそう噂していたが、やっと二人が父につれられて来たのは、次郎が火傷をしてから五六日もたった頃であった。
次郎の火傷が三人を驚かしたことはいうまでもない。しかし、俊亮は正木一家から一通り説明をきくと、
「いやどうも、いつまで経《た》っても仕様のない奴で。ご心配をおかけして申訳ありません。」と言ったきり、すぐ話をお民の病状にうつしてしまった。お民の話になると、みんなの調子ががらりと変った。半ば笑いながら火傷の話をしていたみんなの様子が急に沈んで行った。そばで聞いていた次郎は何だか置きざりにされたような気がした。そこで彼は恭一と俊三とを別のところにつれて行って、しきりに火傷の話をした。
次郎はそれから二人を母の病室につれて行ったが、お民は、二人の顔を見ると、力のない微笑をもらしたきりだった。三人は手持無沙汰でしばらくそこに坐っていた。するとお祖母さんが、
「あちらで遊んでおいで、騒がないでね。」
そう言われると、次郎はすぐ二人を庭につれ出した。
そして自分の火傷をした現場を二人に説明した。
俊亮は二人を残してその日のうちに帰った。帰りがけに彼は次郎を呼んで言った。
「お母さんに見えるところで、兄弟喧嘩をするんじゃないぞ。」
次郎は、自分はどうせ喧嘩をするものだときめてかかっているような父の口吻《こうふん》が、ちょっと不平だった。そして、
(母さんに見えるところでなくったって、喧嘩なんかするもんか。父さんは、このごろ自分がどんなだかちっとも知らないんだ。)
と思った。
火傷のことは、俊亮はもう何とも言わなかった。次郎は安心したような、物足りないような気持で、父に別れた。
火傷をしたあと、母の薬を貰いに行く役目は、従兄弟たちが代ってやってくれた。春子にあえる楽しみもないし、かりにあえても、彼女に見苦しい顔を見られたくなかったのだから、次郎としては大助かりだった。それに、恭一や俊三がやって来てからは、うまい口実が出来たような気がして、めったに病室にも落ちつかなかった。彼は誠吉と一緒に二人を近くの溜池につれ出してよく鮒を釣った。
四五日して、珍しく本田のお祖母さんがやって来た。今度は火傷のことが大ぎょうに問題にされた。彼女は、お民の病気よりその方の話により多くの興味を覚えるらしかった。彼女は幾度も幾度も、
「親不孝の天罰というものでございます。」と言った。そして次郎に対して、
「お母さんの病気が重くなるのも無理はないよ。それでお前は看病をしている気なのかい。」
と、いかにも、みんなの前で自分が責任を以て次郎を戒めている、といったような調子で言った。次郎はその時そっぽを向いていた。すると、本田のお祖母さんは、正木の老人の方を向いて訴えるように言った。
「ほんとに、どう致したらよいものでございますやら。すぐにも私の方に引取らなくてもよろしゅうございましょうか。」
誰も、しかし、真面目になって受け答えするものがなかった。次郎にもよくその場の空気が呑みこめた。だから、彼はあまり腹もたてず、かえって、それ見ろ、といったような気にさえなるのだった。
本田のお祖母さんが来たのは、午少し前だったが、三時ごろまで病室に坐りこんで、正木のお祖母さんを相手に、病人を預けておく言訳やら感謝やらを、くどくどと述べたてた。むろんその間には、次郎のこともしばしば話の種になった。そして、彼女はとりわけ調子を強めてこんなことを言った。
「お民さんにせよ、次郎にせよ、遠く離れていますとよけいに気にかかるものでございまして、わたくし、このごろ毎晩のように二人の夢を見るのでございます。」
次郎たちは、次の間からそれを聞いていた。
しかし、三時をうつと、彼女は急にそわそわし出した。そしていかにも言いにくそうに、
「わたくし、一晩ぐらいは看病もいたさなければなりませんが、今日は俊亮もちょっと遠方に出ていますし、店の方が小僧任せにしてありますので、日が暮れないうちにお暇いたしたいと存じます。まことに勝手でございますが……」
お民も、正木のお祖母さんも、ほっとしたらしかった。しかし、本田のお祖母さんはすぐには立ち上らなかった。そして、次の間にいた子供たちの方に眼をやりながら、言った。
「ああして大勢ご厄介になっているのも、かえって病人の邪魔になるばかりでございましょうから、一先ず、わたくし、つれて帰りたいと存じます。次郎も、もし火傷の薬さえきまって居りましたら、一緒でもよろしゅうございますが……」
次郎は、それで自分も一緒に行くことになりはしないか、などと心配する必要はすこしもなかった。しかし、恭一や俊三に帰ってしまわれるのは、いやだった。まだ一度だって喧嘩もしていないし、それに、恭一には、中学校の入学の参考になることを、これからもっと聞きたいと思っている。第一、母さんの病気が重いのに、帰ってしまうのはよくないことだ。今は休みなんだから。――彼はそんなことを考えて病室の様子をうかがっていた。
「邪魔なんてことはちっともございません。お民も毎日三人のそろった顔が見られるのが楽しみのようでございますから。」
「それはさようでございましょうとも。でも、私どもといたしましては、病人をお預けしたうえに、みんなで押しかけて参っているようで、まことに面目がございませんし、やはり行ったり来たりということにさせていただきたいと存じて居ります。」
「そんなことは、こちらでは何とも思うものはございませんが……」
「そりゃもう、こちら様のお気持はよくわかって居りますし、いつも俊亮ともそう申しているのでございます。でも、やはり世間の眼もありますので……」
「世間など、どうでもよいではございませんか。それを言えば、第一、病人をお預りすることからして間違っていましょうから。」
正木のお祖母さんは、別に皮肉を言うつもりではなかった。しかし、それは本村のお祖母さんにとっては、何よりも痛い言葉だった。正木のお祖母さんも、言ってしまってから、はっとしたらしかった。
いやな沈默がつづいた。庭では蝉がじいじい鳴いていた。
「恭一、――俊三、――」と、お民は次の間の方に顔を向けて二人を呼んだ。二人がやって来ると、力のない声で、
「お祖母さんがお帰りだから、今日はお前たち一緒にお帰り。またすぐ来ていいんだから。」
そう言って彼女は眼をとじた。眉根にはかすかな皺がよっていた。
本田のお祖母さんは、不機嫌な顔を強いて柔らげながら、丁寧に正木のお祖母さんに挨拶した。お民にも何かと親切そうな言葉をたてつづけに言った。そして二人の孫を促《うなが》して立ち上った。
実をいうと、本田のお祖母さんは、恭一や俊三に病気をうつされるのが恐かったのである。それを体《てい》よくごまかそうとして、妙な羽目になったので、病室を出てからも、正木一家の人達に対して、よけいなあいそを言わなければならなかった。そんなわけで、彼女はいよいよ正木の家を辞するまでには、大方小半時もかかった。
次郎は見おくっても出なかった。彼は畳の上にねそべって、母の青い顔を見つめていた。すると、母の眼尻から、彼の全く予期しなかったものが、ぼろぼろとこぼれ落ちた。それは不思議なかがやきをもって彼の心にせまった。
「母さん、どうしたの?」
次郎は、はね起きて母の枕元によって行った。母は、しかし、もうその時には、うるんだ眼に、微笑をたたえて、次郎を見ていた。そして、
「次郎だけは、いつもあたしのそばにいて貰えるわね。」
次郎は、彼の五六歳ごろから見なれて来た母の顔を、もうどこにも見出すことが出来なかった。そこには全くちがった母の顔があった。そしてその顔から、お浜にも、春子にも、正木のお祖母さんにも見出せなかったある深い光が、泉の底の月光のように、静かにふるえて流れ出しているのを、次郎は感ずることが出来たのである。
三八 再会
九月の新学期が始まるころには、次郎の眉も可笑しくないほどに伸びていた。皮膚の色はまだまだらだったが、人に気味悪がられるほどではなかった。次郎はむろん学校に行くつもりでいた。しかし、お民の病気は、すでにその頃は危篤に近い状態だったので、引きつづき休む方がよかろうということになった。
次郎は、実は一日も早く竜一に会ってみたかった。会って東京の様子もきき、また春子がいよいよ本式に上京するのはいつ頃になるのか、そ
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