たしが怒ったからでしょう。堪忍してね。」
 春子は微笑しながら言った。しかし東京行きのことは、みんなの調剤が終るまで一言も言わなかった。そして次郎が薬壜を受取って、部屋を出ようとすると、
「あたしがお薬をこさえてあげるの、これでおしまいよ。」
 と言った。その声は少しさびしかった。次郎はふりかえって、じっと春子の顔を見た。春子も彼を見つめた。
「いつ東京にたつの?」
「五六日してからだわ。でも、今夜あたしの代りをする人が来るんだから、明日からはその人にやっていただくの。」
 次郎は默って歩き出した。すると春子は、
「ちょっと待っててね。」
 そう言って奥に走って行った。そして紙に包んだものをもって帰って来ると、
「今日は竜ちゃんがいないから、これ、帰ってから食べてちょうだいね。」
 次郎は泣きたくなった。彼はほとんど無意識に紙包を受取ると、默って外に出た。
 午後の日は暑かった。彼は大川の土堤に来ると、斜面の櫨の木の陰にねころんだ。そして紙包から菓子を出して、むしゃむしゃたべながら、青空の中に春子の顔を描いていた。

    三六 火傷

 村の夏祭が近づいて、大川端で行われる花火の噂が村人の口に上るころになると、子供たちも薬屋から硝石と硫黄とを買って来て、それに木炭の粉末をまぜて火薬を造り、毎晩小さな台花火《だいはなび》などをあげて、楽しむのだった。彼らは「しだれ桜」だとか、「小米の花」だとか「飛雀《とびすずめ》」だとか、そういった台花火のいろいろの名称を知っていたが、むろん彼らにそんな巧妙なものが出来ようはずはなかった。彼らはただ小さな竹筒に手製の火薬をつめ、それをいくつも竿に結びつけて水際に立て、下から順々に火を点じてさえいけば、それで満足したのである。もし、一筋の糸が張ってあり、それを伝って一つの花火が突進し、それを導火にして、一番下の竹筒が火を吹きはじめ、あとは次第に上に燃え移るように口火がつながっており、それに最上端の花火が廻転する仕掛にでもなっていれば、それは彼らの工夫としては、最上のものであった。中には、火薬の中に鉄粉をまぜて、青い花火を出して見せようと試みる者もあったが、それに成功するものは極めてまれであった。
「次郎ちゃん、買って来たよ。」
 ある日、次郎が例のとおり病室の次の間で、憂欝な顔をして机の前に坐っていると、誠吉が縁側から這いあがって来て、こっそり耳うちした。それは春子が東京に去ってから数日後のことであった。
 彼は相変らず、「いじらしい子」ではありたかった。しかし、春子が去ったあと、彼が心にもない善行をつづけていくには、彼の心はあまりにも淋しかった。それでなくてさえ、花火の誘惑は、このごろ日ごとに彼の心を刺戟して、もうじっとしては居れなくなっていた。で、今日はとうとう誠吉に例の貯金の中から銅貨を何枚か渡して、誰にも秘密に、硝石と硫黄とを少しばかり買って来てもらったのである。
 彼は誠吉を手真似で制しておいて、そっと病室の方をのぞいてみた。母はしずかに眼をとじている。敷布の上をはっていた蠅が、彼女の額に飛びうつったが、彼女はかすかに眉をよせただけである。蠅はすぐまたどこかへ飛んでいってしまった。祖母も茣蓙をしいて向うむきにねている。夜中に眼をさますことが多いので、午後になると、大ていぐっすり昼寝をする習慣になっている。ことに次郎が近くにいると、祖母は安心してねるのである。
 次郎は、お祖母さんが眠っている時に出て行くのは悪いような気がして、ちょっとためらった。しかし、正木の家では、花火は危険だからと言って、なるだけ子供たちには作らせないことにしている。お祖母さんが目を覚ましている時だと、何とか口実を作らなければならないが、それも面倒だ。眠っている間に火薬の調合だけでもすましておく方が都合がよい。そう思って彼はすぐ立ち上った。そして、誠吉を顎でしゃくって先に行かせ、その後から、足音を立てないように、縁側を降りると、いっさんに築山のかげに走って行った。
 そこには、もう蝋鉢と擂古木《すりこぎ》と消炭の壺とが、誠吉によって用意されていた。二人は先ず硝石《しょうせき》を擂り、次に硫黄を擂った。擂られた硝石と硫黄とはべつべつの紙に包まれて、大事に石の上に置かれた。最後に消炭を擂るのだったが、それは分量が多いだけに骨が折れた。二人は代る代る擂古木をまわした。一人が擂古木をまわしている時には、もう一人は鉢が動かないようにその縁《ふち》をおさえていた。消炭は、指先で揉んでも、少しもざらざらした感じがしないまでに擂らなければならなかった。そのために、二人は、汗がしばしば顎をつたって鉢の中にしたたり落ちたほど、一所懸命になって擂古木をまわした。
 消炭が十分擂れたところで、硫黄と硝石との粉が、適当の割合に、鉢の中に加えられた。あとはよくまぜれば、よかったのである。しかしよくまぜるには、やはり擂古木で擂る方が一番よかった。
 で、次郎が先ず擂った。次に誠吉が擂った。次郎は、両手で鉢をおさえ、出来るだけ顔を鉢に接近さして中をのぞきながら、
「もういい、もういいよ。」と言った。
 その時誠吉がすぐ手を休めさえすれば、何事もなくてすんだかも知れなかった。しかし誠吉はおまけのつもりで、しかも最後だというのでうんと力を入れて、急速度に擂古木をまわした。
 とたんに火薬は一度に爆発した。音は高くはなかった。それはぼっとした夢のような音だった。しかし、鉢の縁とすれすれに顔を近づけていた次郎は、その音にはじかれたように、草の上に突っ伏してしまった。
「次郎ちゃん、次郎ちゃん。」
 誠吉の緊張した、しかし、人を憚《はばか》るような声が、次郎の耳元できこえた。次郎は気を失っていたわけではなかった。しかし、その声をきくまでは、彼は泥水の底に沈んでいるような気がしていた。
 起きあがって眼を開けると、まつ毛がじかじかした。顔がほてって、皮膚が変に硬ばっていた。彼は誠吉を見ながら、心配そうに訊ねた。
「僕の顔、どうかなってる?」
「まっ白だい。煙がくっついているんだろう。」
 次郎はそっと手で顔を触《さわ》ってみた。ぬるぬるしたものがくっついているような気がする。さほどひどくはないが、ぴりぴりした痛みを覚える。
「早く水で洗っておいでよ。」
 誠吉が言った。
 次郎は離室や座敷の方をそっとのぞいてから、池の水を両手で掬《すく》って、顔にもっていった。が、それと同時に彼は悲鳴に似た声をあげ、再び築山のかげに走って来た。彼の顔は、ところどころ鮪《まぐろ》の刺身のように真赤だった。誠吉は眼を皿のようにして立ちすくんだ。
 次郎は草の上に仰向けに寝ころんで、ふうふう息をした。顔全体から炎が吹き出しているような感じだが、どうすることも出来ない。彼はただ手足をばたばたさして苦痛をこらえた。誠吉は全身をぶるぶるふるわせながら、しばらくそれを見ていたが、急に声を立てて泣き出した。そしていっさんにどこかに走って行った。
 間もなくお延が子供たちと一緒に走って来たが、次郎の顔を見ると、
「あれえっ。」
 と、けたたましい叫び声をあげた。
 つづいて雇人たちがどやどやとやって来た。すこしおくれて謙蔵が来た。最後にお祖父さんが来た。そしてお祖母さんは、離室《はなれ》の縁から、
「どうしたのだえ。どうしたのだえ。」
 と、もどかしそうに何度も叫んだ。
 しばらくはただ騒がしかった。次郎はその間じゅう、眼をつぶってうめいていた。彼の苦痛は実際ひどかった。が、彼はうめきながらも、みんなの驚きや、心配や、同情の程度をひそかに測定することを忘れなかった。そして、彼のむごたらしい面相と、苦痛を訴えるうめき声とによって、彼の悪行――少くとも大きな過失に対する非難は、とっくに帳消しにされてしまっているらしいのを知って、内心ほっとした。実際彼には、言訳をするだけの心のゆとりがなかった。また言訳をしようとしても、証拠があまりに歴然としていて、全くその余地が残されていなかった。そんな場合に、彼が自分の過失からうけた災害が、みんなの同情をひくほど大きかったということは、彼にとって何という仕合わせなことであったろう。
 彼はみんなにいたわられ、慰められながら、母屋の方に運ばれた。そして取りあえず卵の白身を顔一ぱいに塗られ、その上に紙を張られた。その時になって彼自身も気がついたことだが、手頸から親指にかけても、かなり大きく皮膚がただれていた。そこにも卵の白身が塗られた。
 それから一時間あまりもたって、竜一の父が来た。そして今度は変な匂いのする黄いろいものをべたべたと塗りつけ、眼と口だけを残して、ほとんど頭全部に繃帯をかけた。彼は繃帯をかけながら言った。
「ほんの上皮だけだから大したことはない。しかし、笑ったり泣いたりして、顔をゆがめちゃいかん。」
 そのくせ、彼自身はそう言いながら笑っていた。
 次郎は、寝ているには及ばない、と言われた。しかし起きれば母の部屋に顔を出さないわけにはいかない。それは気づまりで、彼はもう大して痛みを感じなくなってからも、じっと寝ていた。いろんな人が彼をのぞきに来たが、誰も彼も、
「案外大したことでなくてよかった。」とか「もう痛みはとれたのか。」とか、そういった同情的な言葉だけを残して行った。
 誠吉はお延にひどく叱られたらしい。彼も実は、右手の小指から手首にかけて、細長く火ぶくれがしていたが、それを誰にもかくしていた。夜になって、こっそり次郎にだけそれを打ちあけ、枕元にあった黄いろい薬を少し貰って塗りつけながら、彼は母に叱られた話をした。
「お祖父さんに叱られやしない!」
 次郎は、祖父にだけまだ言葉をかけてもらえないでいるのが、非常に気がかりだった。
「ううん、何にも言わないよ。」
 誠吉は無造作に答えた。しかし次郎は、そう無造作に言われると、かえって胸が重たくなった。彼は、祖父の自分に対する愛がこのごろ衰えたとは決して思っていない。だが、その愛には何か犯《おか》しがたいものがあって、うっかり飛びついて行けないような気がする。牛肉一件以来彼はそうした気持になっているのである。その意味で、祖父に愛されていることは、彼にとって一つの重荷でさえあると言える。しかし、それだからといって、彼は祖父の愛から逃げ出したい気持には少しもなれない。何といっても、祖父は正木の家では他の誰よりも大きな魅力を持っている。もし祖父の彼に対する愛が少しでも冷めかかったと知ったら、彼は恐らく、春子に別れた時とは全くちがった、あるどす黒い絶望を感じたかも知れない。それほどの祖父でありながら、いざ自分から近づいて行こうとすると、何となく気おくれがする。それはちょうど大海の真青な波に心をひかれながら、思いきって飛びこめないのと同じ気持である。で、彼はいつも遠くから、祖父の本当の気持をそれとなく探ろうとする。ことに今日のようなことがあると、それが一層ひどい。そして、うまくそれが探れないと、彼の気持はみじめなほど憂鬱になって行くのである。
 翌日は、彼はもう我慢にも寝ていられなかった。そして起きあがると、お祖父さんの目につくようなところを何度も行ったり来たりして、何とか言葉をかけて貰うのを待っていた。しかしお祖父さんは、いつもちらりと彼の方を見るだけで、容易に口を利こうとはしなかった。次郎は、あとでは、口を利いてさえ貰えばそれがどんな烈しい叱言であってもいいような気にさえなった。しかし、お祖父さんの口は依然として固かった。
 次郎は絶望に似たものを感じながら、母の病室に行った。彼は、そこでは、最初から母の叱言《こごと》を予期していた。ところが、母はただまじまじと彼の繃帯でくるんだ顔を見つめるだけだった。そして、かすかな溜息をもらすと、すぐ眼をそらしてしまった。
「お坐り。」
 お祖母さんがやさしく声をかけてくれた。彼はやっと救われたような気になって、彼女の横に坐った。
「そのぐらいですんだからいいようなものの、眼でもつぶれてごらん。それこそ大変だったよ。これからはもう花火なんかこさえ
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