日の朝、竜一は学校で次郎の顔を見ると、いかにも得意らしく言った。
「僕、休みになったら、すぐ東京見物に行くよ。次郎ちゃんは東京に行ったことある?」
次郎は侮辱されたような気がして、ちょっと不愉快だった。しかし、怒る気にはなれなかった。それに好奇心も手伝って、もっと委しい話をきかないわけにはいかなかった。
「いいなあ。東京に親類があるんかい。」
「ううん。まだ親類はないんだけれど、すぐ親類が出来るんだい。」
次郎にはわけがわからなかった。彼は竜一の顔を問いかえすように見たが、竜一はにやにや笑っているだけだった。
「誰がつれて行くんだい。」
そうたずねた次郎の心には、もし竜一の父だと、その留守中、母の病気は誰が診《み》てくれるだろうか、というかすかな心配があった。
「大てい母さんだろうと思うけれど、はっきり決ってないや。僕は父さんの方がいいんだがなあ。」
「でも病人をほったらかしちゃいけないんだろう。」
「だから、父さんはどうしても行けないんだってさ。でも、姉ちゃんは、母さんがついて行く方が好きなんだよ。」
「姉ちゃんも行くんかい。」
次郎は、薬局から当分春子の姿が消えるんだと思うと、急に淋しい気がした。
「姉ちゃんが行くんだよ。だから僕らもついて行くんだよ。」
次郎の頭には、竜一が「すぐ親類が出来る」と言った言葉が、電光のように閃いた。そして、急に竜一の顔がにくらしくなり、もう相手になって話したくないような気にさえなった。しかし、一方では、いつまでも竜一にくっついて、どんづまりまできいてみないではいられないような気もした。
「いつ帰るんだい。」
「学校が始まるまでに帰るよ。」
「母さんもかい。」
「うむ、だって僕一人では帰れないんだもの。」
「姉ちゃんは?」
次郎は何でもないことをきいているように見せかけようとして、竜一と肩を組んだが、その声は変に口の中でねばっていた。
「姉ちゃんも一緒に帰るよ。」
次郎はほっとした。同時に、竜一の肩にかけていた彼の腕が少しゆるんだ。しかし、竜一はつづけて言った。
「だけど、またすぐ東京に行くんだろう。東京にお嫁入りするんだから。」
次郎は、木の枝から果物をもいだ瞬間、足をふみはずして落っこちたような気がした。
まもなく始業の鐘が鳴った。次郎は教室に這入っても春子のことばかり考え続けた。竜一の言ったことは、まるで出たらめのような気もした。しかし、それにも拘らず、春子が遠くに消えていくたよりなさが、一秒一秒と彼の胸の奥にしみていくのだった。春子のお嫁入り、それは次郎にとって少しも悲しいことではない。彼は、村の娘たちの嫁入姿をこれまで何度も見たのであるが、そんな時に春子の場合を想像しても、それは美しいまぼろしでこそあれ、決して苦痛とは感じられなかった。また春子の相手が、何処の誰であろうと、それも次郎にとって、ほとんど問題ではない。その人物を想像してそれに対して、敵意を持つというような気には少しもなれないのである。彼には、ただ春子が薬局から姿を消すのがたまらなく淋しい。それもこの近在にでもいて貰えばまだいい。夏休み中だけで帰って来るのなら、辛抱も出来る。しかし、竜一の言うのが本当なら、彼女は遠い東京に去るのである。もう一度帰って来るにしても、結局は永久にこの村から姿を消すのである。あれほど自分を可愛がっておきながら、どうしてそんな遠いところに行く気になれたのだろう。自分が幼いころからほしいと思っていた「姉」、やっと平気で「姉ちゃん」と呼びうるようになったその「姉」が、どうしてこんなに無造作《むぞうさ》に自分から離れて行くのだろう。
彼の心には、お浜に別れた時のかすかな記憶があらたに甦って来た。その時のこまかな事実は、もう大てい忘れているが、言いようのない淋しさのために、地の底にでも吸いこまれるように感じたことは、今でもはっきり覚えている。その感じが再び彼の胸にうずきはじめた。むろんその頃とは年齢もちがうし、お浜と春子との彼に対する関係が同じでないことぐらいは、よくわかっている。春子はただ友達の姉というに過ぎない。薬を貰いに行くたびにどんなに親しみをましていようとも、お浜に期待したものを春子にも期待していいとは決して思わない。道理の上では、それは十分納得のいくことである。しかし、それにもかかわらず、春子に対する彼の気持の上での期待は、お浜に対するのとあまり変らない。否、それが当面の生々しい問題であるだけに、遠い過去のそれよりも一層痛切であるとさえいえる。お浜はいわばもう絵に描いた乳母である。それがものを言わないのは淋しい。しかし、その淋しさは諦めのつく淋しさである。思い出してその絵を見る時だけの淋しさである。忘れていることも出来る淋しさである。期待と名のつくほどのものが彼の心に動くには、お浜は、あまりにも古い絵になり過ぎている。だが春子はまだ決して絵ではない。彼女のいかなる部分も生きて動いている。眼が笑い、唇がものを言い、髪が揺れ、白い指が薬壜をふっている。しかも、次郎にとっては、喜び以外の何者でもない唯ひとりの「姉」である。かりに彼女とお浜とが、同時に次郎の生活に飛びこんで来て、彼に対する愛情の競争をやるとしたら、多分「姉」は「乳母」に勝をゆずらなければならないであろう。しかし、「姉」が生きた人間で、「乳母」が絵でしかない場合、次郎でなくとも、「姉」を失うことこそ、より大きな不幸と感ずるであろう。
授業は午《ひる》ですんだ。その間に何度も鐘が鳴って、彼は教室を出たり這入ったりした。しかし彼が学校に居ることをはっきり意識したのは、ほとんど鐘が鳴り出す瞬間だけであった。それほど彼の心は春子のことに集中していたのである。
集中したといっても、何かを頭の中で工夫していたのではなかった。彼はただ美しい「姉」の姿を追った。それが汽車に乗って遠くに運ばれて行くのを見た。地図で想像する東京の近くまで来ると「姉」の顔も、列車も、一つの点に消えうせた。あとは、何もかもがらんとしていた。それは光でもない、闇でもない、灰色の音のない世界であった。その灰色の世界には、いつの間にか再び「姉」の顔が浮かび出した。そしてまた東京の方に消えた。彼の頭の中には、何度も何度もそれがくりかえされた。教室では先生の指図《さしず》に応じて、本を開いたり、鉛筆を動かしたりはした。しかしそれは全く機械的だった。運動場ではボール投もやり、角力もとった。しかし、彼は何度もボールを取り落し、角力ではすぐ押し出された。
「次郎ちゃんは、今日は真面目にやらないんだから、駄目だい。」
仲間たちは、何度もそんな不平を言った。次郎は、しかし、力のない微笑をもらすだけだった。
彼は竜一ともほとんど口をきかなかった。しかし、いよいよ最後の授業が終って教室を出ると、彼はすぐ竜一をつかまえて言った。
「一緒に君んとこへ行ってもいい?」
竜一はむろん喜んだ。二人はすぐ並んで歩き出したが、校門を出ると、次郎は急に立ちどまって何か考えるようなふうだった。
「どうしたい。早く行こうや。」
竜一がうながした。すると次郎は、
「君、さきに帰っとれよ。僕すぐ行くから」
彼は午飯のことを思い出したのだった。午退けのために弁当を持って来ていないのに、竜一の家に行くのが気まずかったのである。
「どうしてだい。」
「どうしてでもいいから、さきに帰っとれよ。」
彼はそう言って、さっさと門内に這入ってしまった。竜一は不平そうな顔をして、しばらく彼を見ていたが、仕方なしに、他の仲間たちと一緒に帰って行った。
次郎はしばらく、教員室に最も遠い校舎の角の、日陰になったところに、一人でぽつねんと立っていた。そして掃除当番のがたぴしさせる音が少ししずまったころ、再び校門を出た。
強い日照の路を、彼はかなりゆっくり歩いた。そして竜一の家についてからも、しばらく内の様子をうかがってから、敷居をまたいだ。敷居をまたぐと、すぐ左側は薬局の窓だったが、中はしいんとしていた。彼はいつものように自分勝手に上りこむ気になれず、いかにも遠慮深そうに、「竜ちゃあん。」と呼んでみた。どこからも返事がない。遠くの方から、食器のふれるような音が、かすかに聞えて来る。彼はもう一度呼んでみる勇気が出なくて、そのまま上り框に腰をおろした。
彼は少しつかれていた。戸外のぎらぎらした光線が、汗ばんだ彼の顔を褐色に光らせていた。彼は気が遠くなるような、息がはずむような変な気がした。
「あら、次郎ちゃんじゃない? 今日はお薬の日だったの?」
だしぬけに春子の声がうしろにきこえた。次郎はうろたえて立ち上りながら、
「ううん、竜ちゃんは?」
「竜一? いるわ。たった今学校から帰って、ご飯たべたところなの。次郎ちゃんも学校のお帰り? ご飯まだでしょう?」
「うん、僕たべたくないや。」
「どうかしたの?」
「ううん。」
次郎は首をふった。春子はちょっと変な顔をして彼を見つめたが、
「じゃ二階に上ってらっしゃい。すぐ竜ちゃんを呼んで来てあげるわ。」
春子はそう言って奥へ行った。次郎には彼女がいつもよりよそよそしいように思われて仕方がなかった。来なければよかったというような気もした。しかし、そのまま帰るのも工合がわるくて、またぽつねんと立ったまま戸外をながめていた。
竜一が間もなく走って来た。二人はすぐ二階にあがった。次郎はつとめていつもの通りに振舞おうとしたが、やはり気が落ちつかなくて、二人の遊びはしばしば間がぬけた。春子が二階に上って来たのは、それから三十分も経ってからであった。
彼女は、父が病家から持って帰ったらしいお菓子の紙包を、二人の前にひらきながら、
「ほんとに次郎ちゃん、今日はどうしたの。学校の帰りにより道なんかして。」
「…………」
「何かまたいたずらをしたんじゃない?」
「ううん。」
「お母さんが心配なさるわよ。」
「…………」
「おかしいわね。默ってばかりいて。」
「…………」
「ほんとに、どうしたのよっ。」
春子は、めすらしく真剣に怒っているような声を出した。すると次郎は、それとはまるで無関係のように、真面目な顔をして、だしぬけにたずねた。
「姉ちゃんは、東京に行くの?」
「あらっ。」
春子の顔は、瞬間に真赧《まっか》になった。そしてすぐ竜一の方を見ながら、
「竜ちゃん、もう喋ったのね。いいわ、もうこれからなんにも上げないから。」
春子は菓子の包みをひったくるようにして、さっさと下に降りて行ってしまった。
竜一と次郎とは、ぽかんとして顔を見合わせた。しかし次の瞬間には、次郎はもうそわそわし出した。彼は、幾日かの後に失わるべき春子が、すでに彼から全く姿を消してしまったように思った。そして何よりも彼をうろたえさせたのは、春子を怒らしてしまったことであった。
竜一は、しかし、憤慨した。
「馬鹿にしてらあ。東京に行くの大喜びのくせに。……お菓子くれなきゃ、くれないでいいや。僕とって来るから。」
そう言って竜一はすぐ下に行った。
次郎はいよいようろたえた。彼は竜一が菓子をもって再びやって来るのを待っている気がしなかった。で、自分もすぐ下におりて、足音を忍ばせながら、大急ぎで外に出てしまった。
正木の家に帰ると急に空腹を感じて、しきりに飯をかきこんだ。そして誰もたずねもしないのに掃除当番でおそくなったのだ、と何遍も言訳をした。むろんそれにしては時間がおくれ過ぎていたが、別に誰も怪しむものはなかった。
翌日は薬を貰いに行く日だった。次郎は何となく行きづらいような、それでいて早く行ってみたいような気がした。薬局の外には、六七人の人が待っていたが、彼が敷居をまたぐ音がすると、すぐ窓から春子の眼がのぞいた。そして、
「次郎ちゃん? ここでも二階ででもいいから、しばらく待っててね。今日は、ほら、こんなに沢山待っていらっしゃるから。」
次郎はほっとした。そしてすぐ薬局の中に這入って、例のとおり春子の調剤の手つきを見まもった。
「次郎ちゃんは、昨日默って帰っちゃったのね。あ
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