お延は、むろん、誠吉を戒める材料に、しょっちゅう次郎を引合いに出した。謙蔵ですら、子供たちがあまりそうぞうしいと、
「少し次郎ちゃんに見習って、勉強するんだ。」
 とどなることがあった。
 正木のお祖父さんだけは、不思議に何とも言わなかった。言っているのかも知れなかったが、次郎の耳には少しもはいらなかった。次郎にとっては、それはたしかに物足りないことの一つであったが、しかし、そのために彼は決して悲観はしなかった。なぜなら、この家で、お祖父さんは彼の第一の味方であり、その第一の味方が、他の人たち以上に彼を讃《ほ》めていないわけはない、と彼は確信しきっていたからである。
 ところで、そうした讃辞《さんじ》は、次郎にとって大きな悦びであると共に、また強い束縛《そくばく》でもあった。彼はいつも人々の讃辞に耳をそばだてた。そして、一つの讃辞は、やがて次の新しい讃辞を彼に求めさせた。彼は、彼自身の本能や、自然の欲求に生きる代りに、周囲の人々の讃辞に生きようと努めた。それも彼の本能の一つであったといえないことはないかも知れない。しかし、そのために、彼が次第に身動きが出来なくなって来たことはたしかだった。しかも、時としては、彼は、そのために、心にもない善行にまで逐いつめられることさえあったのである。
 ある日彼は、おりおりこの村にやって来る顔馴染の肉屋が、近所の農家の前に目籠《めご》をおろして、肉を刻んでいるのを見た。その時は、ちょうど学校の帰りがけで、村の仲間たちと一緒だった。仲間たちは、肉屋を見ると、すぐそのまわりを取り巻いた。巧みな出刃の動きにつれて、脂気のない赤黒い肉が、俎《まないた》の片隅にぐちゃぐちゃにたまっていくのを、彼らは一心に見入った。空がどんよりと曇って、むし暑い空気の中を、肉の匂いがむせるように漂った。
 次郎も、一緒になって、しばらくそれを見ていたが、ふと彼は、母が毎日飲む肉汁《すうぷ》の事を思い起した。「鶏の肉汁にはもうあきあきした。何か変ったものはないかしら。」……そう言って眉根をよせながら、肉汁を啜《すす》っている母の顔が眼に浮かんで来た。「今度肉屋が来たら、一度牛肉にしてみようかね。」――祖母のそうした言葉も同時に思い出された。
 彼の机の中には五十何銭かの貯金があった。それは学用品代として俊亮に貰ったもののあまりや、近所に牡丹餅を配ったりした場合、先方から使賃として一銭ずつ貰ったのを貯めておいたものである。彼はこの貯金のことを思い出すと、急に胸がどきどきし出した。そして大急ぎで家に帰ると、珍しく病室にも顔を出さないで、すぐ自分の机の抽斗をあけた。そしてその中の小箱から、音のしないように十銭白銅三枚をつまみ出すと、すぐまたこそこそと家を出て、肉屋のいるところへ走って来た。
 肉屋は、ちょうど俎《まないた》と出刃とを目籠の中にしまいこむところだった。子供たちは、まだみんなその周囲に立っていた。そして、次郎が息をはずませながら帰って来たのを見ると、その中の一人が、見物事はもうすんだといったような顔をして言った。
「次郎ちゃん、もっと早く来ればよかったのに。」
 次郎は、勢いこんで走って来たものの、妙に気おくれがして、みんなのいる前で、肉屋にもう一度目籠の蓋をあけさせる勇気が出なかった。買いにやられたことにすれば何でもないはすだったが、彼は自分の手に握っている金で、どのぐらいの分量の肉が買えるものか、その見当がまるでつかなかったのである。彼は、友達の顔と肉屋の顔とを等分に見くらべながら、しばらくぐずぐずして立っていた。そのうちに肉屋は、彼に頓着なく、目籠をかついで、正木の家とは反対の方向に歩き出した。同時に、仲間たちもばらばらに散ってしまった。彼らがまた肉屋のあとについて歩くのではないかと心配していた次郎は、それでほっとした。
 仲間たちの姿が見えなくはると、彼は急いで肉屋のあとを追った。彼が追いついたのは、どの家からもかなり離れた畑の中の道だった。幸い近くには人影が見えなかった。彼は何度も躊躇《ちゅうちょ》したあとでとうとう思いきって声をかけた。
「肉屋さん、肉まだある?」
「ええ、ありますよ。」
 肉屋はふりかえってそう答えたが、目籠をおろしそうなふうには見えなかった。
「少うしでも売る?」
「ええ、いくらでも売りますよ。」
「じゃ、これだけおくれ。」
 次郎は思いきって、握っていた手をひろげて突き出した。三枚の白銅がびっしょり汗にぬれて、掌の上に光っていた。
 肉屋はけげんそうに次郎の顔を見て、金を受取ったが、すぐ目籠をおろして、幅一寸長さ三寸ぐらいの肉片を俎の上にのせた。
 次郎はそれをみんな刻んでくれるのかと思って見ていると、秤にかけられたのはその半分ほどだった。それでも秤《はかり》は錘《おもり》の方がはね上った。すると肉屋はまたそれを俎の上におろして、ほんの少しばかり端っこを切りとった。そしてもう一度秤にかけた、今度は錘の方がやや低目になった。すると、切りとった端っこの肉を、更に半分ほど切りとって秤の肉につぎ足した。それで秤は大たい水平になった。肉屋はその肉を俎において刻み終ると、からからになった脂肪の一片をそれに加え、竹の皮に包んで次郎に渡した。次郎は、牛肉というものについて、ある新知識を得たような気持で、それを受取った。
 彼は受取るとすぐ、周囲を見まわしながら、それを懐に押しこんだ。そして恥ずかしいような、誇らしいような変な気分を味わいながら、母の病室に這入って行った。
 病室には正木の老夫婦の外に、ついさっきまでいなかったはずの謙蔵がいた。次郎はお祖母さん一人の時の方が工合がいいように思ったが、思いきって竹の皮包みをみんなの前に出した。
「何だえ、それ。」
 お祖母さんがたずねた。
「牛肉だよ。」
「牛肉? どうしたんだえ。」
「買って来たのさ。」
「買って来た? どこで?」
「村に売りに来ていたんだよ。」
 みんなは変な顔をして、竹の皮包みと次郎の顔とを見くらべた。
「誰かに言いつかったのかい。」
「ううん。」
「お金は?」
「僕持っていたんだい。」
「お前のお小遣い?」
「そう。」
「何で牛肉なんか買って来たんだえ。」
「母さんが、鶏のスープはもう飽いたって言っていたからさ。」
「まあ、お前は……」
 お祖母さんは急におろおろした声になって、ぼろぼろと涙をこぼした。お民の眼にも涙が浮いていた。謙蔵は微笑しながら言った。
「そいつは感心だ。で、どれほど買って来た?」
「三十銭だけど、たったこれっぽちさ。」
 次郎はそう言って竹の皮を開いて見せた。お祖母さんがそれでまた涙をこぼした。
「いや、今日は牛肉のご馳走が沢山に出来るぞ。叔母さんも、さっき一斤ほど買ったようだから。はっはっはっ。」
 謙蔵は、以前のいきさつなどすっかり忘れているかのように朗らかだった。次郎は、しかし、それを聞いてちょっとがっかりした。小さな竹の皮に、薄くぴったりと吸いついている赤黒い肉が、彼の眼にはいかにもみじめだった。
「次郎、ありがとう。じゃ叔母さんに買っていただいたのと一緒にしてお貰い。」
 次郎は、母にそう言われて、少しきまり悪そうに、もとどおり竹の皮包みに紐をかけた。そして立ち上りしなに、はじめてちらりとお祖父さんの顔を見た。すると、驚いたことには、お祖父さんは、彼がこれまでにまだ見たことのないような渋い顔をして、彼を見つめていた。次郎の誇らしい気持は、その瞬間にすっかりけし飛んだ。
(生意気なことをする奴だ。)
 お祖父さんの眼が、そう言っているような気がしてならなかった。そして、彼の手に持っている竹の皮包みからは、いやな匂いがぷうんと彼の鼻をついた。
 彼はその後お祖父さんの前に出ると、妙に手も足も出ないような気持がするのであった。

    三五 薬局

 正木に来てからのお民の主治医は竜一の父だった。
 薬は三日に一度貰うことになっていたが、その使いをするのは、いつも次郎の役目だった。それが次郎にとって何よりの楽しみだった。薬局にはたいてい春子がいた。――親孝行の名において、しかも竜一を囮《おとり》に使う面倒もなく、極めて自然に「姉ちゃん」の顔が見られ、声が聞かれる。何という恵まれた機会を次郎は持ったことであろう。
 最初の一回だけは、彼は薬局の窓口から薬壜《くすりびん》と薬袋《くすりぶくろ》とを差出した。すると、美しい眼がすぐ窓口から次郎をのぞいた。そして、
「あら、次郎ちゃんじゃない? こちらにおはいり。」
 次郎は、むろん躊躇しなかった。そして第二回目からは、案内も乞わないで、さっさと薬局の中に這入りこんだ。たまには足音を忍ばせて春子を驚かしたりすることもあった。
 調剤の時には、春子はいつも真っ白な上被《うわぎ》をかけ、うぶ毛のはえた柔かな腕を、あらわに出していた。次郎にはその姿が非常に清らかなもののように思われた。彼は春子が仕事をしている間は、自分からはめったに話しかけなかった。そして、ガラスや金属のふれあうひそかな音に耳をすましながら、一心に彼女の手つきを見つめた。
 春子は、ガラスの目盛をすかして見たりしながら、よく次郎に母の容態《ようたい》をたずねた。そんなときには、次郎はいかにも心配らしく、かなり大ぎょうな調子で、自分の直接知っていることや、祖母たちの話していることを伝えた。そして、春子が眉根をよせたり、眼を見張ったり、「まあ、まあ」と叫んだり、或いは笑顔になったりする表情を、自分自身に対する深い同情のしるしとして受取り、甘い気分になってそれに陶酔《とうすい》するのであった。
 彼が薬局に来ているのを知ると、竜一がすぐ飛んで来て、彼をほかの部屋に誘い出そうとした。次郎は、しかし、それをあまり喜ばなかった。そして、心の中で、自分の来ていることが竜一に知れなければいい、などと思ったりすることがあった。で、学校などで、竜一に、今度はいつ来るかときかれても、あいまいな返事をすることが多かった。
 しかし、竜一の存在は、彼にとっていつも邪魔であるとは限らなかった。ほかに薬を貰いに来ている人がないと、竜一はきまって自分と次郎とのために、春子におやつをねだり、それを二階の子供部屋で一緒に食べるのだった。春子も手があいているかぎり、必ず二人の相手をした。次郎にとってはおやつも嬉しかったが、春子に相手になって貰うことが、それ以上に嬉しかった。もしおやつも春子も一緒であれば、それが最上だったことはいうまでもない。
 しかし、あまり永く次郎が遊んでいるのを、春子は決して許さなかった。薬壜を渡されてから、三十分以上も次郎がぐずぐずしていると、春子はきまって言った。
「お母さんが待っていらっしゃるわ。もう帰らないと。」
 次郎は、そう言われないうちに立ち上りたいとは、いつも思っていた。しかし思っているだけで、それに成功したことは一度だってなかった。彼は最後の十分間ほどを、いつもはらはらしながら過した。そして春子のその言葉を聞くたびにいつも後悔した。しかし、一旦、そう言われると、彼はもうぐずぐずはしなかった。いかにも「うっかりしていた」というような顔つきをして思い切りよく立ち上った。この時の彼の「さようなら」は、決して元気のない声ではなかった。
 次郎は脊は低かったが、同じ年配のどの少年にも負けないほど、足の速い子であった。ことに竜一の家で三十分以上も遊んだ場合には、おどろくほどの速さで帰って行った。一方は櫨|並木《なみき》、一方は芦のしげった大川の土堤を、短距離競走でもやっているかのように走って行く彼の姿を、村人たちはしばしば見るのであった。それは、「お使に行っても決して道草を食わない子だ。」という正木の家でのこのごろの定評を裏切るのは、彼としてあまり好ましいことではなかったからである。
 ところで、こうした定評などにかまっていられない、一つの重大な、彼にとっては恐らく最も不幸だと思われる事件が、彼に近づいて来た。それは春子の身上に関することであった。
 暑中休暇が始まるのもあと二三日という、ある
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