ら、じっとこちらを見ているだけで、言葉をかけそうな気配さえ見せなかった。
次郎は、どうしていいかわからなくて、しばらく梯子段に釘づけにされたように突っ立っていたが、みんなが彼の姿の見えなくなるのを待っているとしか思えなかったので、不安な気持に襲われながら、そのまま二階に上って行ってしまった。
二階に上ると、彼はいつになく机の前に坐って、教科書をひろげた。むろん勉強する気には少しもなれなかった。彼はぼんやりと教科書を見つめながら、耳を階段の下にすました。
話し声は、しかし、まるで聞えなかった。いつもの彼なら、廂《ひさし》から庭木を伝ってでも下におりて盗み聞きするのだが、今日は不思議に手足まで固くなったような気がして、机の前に坐ったきり、小一時間も動かなかった。
窓の外では、廂の上に伸びでた橙《だいだい》の木に、蜜蜂が何疋もたかって、白い花をほろほろとこぼしていた。次郎は、見るともなしにそれを見つめていた。すると、梯子段の下から、だしぬけにお延の声がきこえた。
「次郎ちゃん、お勉強?」
次郎は、なぜか、すぐには返事が出来なかった、彼は、急いで筆入の中から鉛筆を一本取り出し、しきりにそれを削りはじめた。
「おや、いないの?」
お延の足音が梯子段を上って来た。次郎が、鉛筆と小刀を持ったまま、あわてて立ち上ると、もうお延の顔が覗いていた。
「まあ、返事をしないものだから、どうしたのかと思ったわ。……父さんが呼んでいらっしゃるから、すぐおりてお出で。」
次郎は、異様な緊張を感じながら、お延のあとについて階下におりた。
座敷には、もう謙蔵の姿は見えなかった。俊亮と老夫婦とは、相変らず硬い顔をして坐っていた。次郎は、俊亮にお辞儀をして、窮屈そうにその前に坐ったが、その眼は、みんなの顔を見くらべては、すぐ畳の上に落ちていくのであった。
「次郎、お前には、これから、母さんにしっかり孝行をして貰わねばならんが……」
俊亮はかなり永い間次郎を見つめてから、いつもに似ぬおもおもしい口調で言った。
次郎は、そう言われただけでは、むろん返事のしようがなかった。彼はただ、自分のことについて、父が何か重大なことを言い出そうとしていると思って、いよいよ固くなるばかりであった。
「母さんも、もう二三日すると、こちらにご厄介になることになったんだよ。」
次郎はわけがわからなかった。しかし、自分の予想していたこととは、話が大ぶちがっていそうに思えたので、いくらか安心した。そして、まじまじと父の顔を見た。
「お前にはまだ知らしてなかったが、母さんは病気になってね。」
俊亮の声はいやに淋しかった。彼はまだ何かつづけて言うつもりらしかったが、それだけ言うと急に默りこんでしまった。すると正木のお祖母さんが、すぐそのあとを引きとって、愚痴《ぐち》っぽくいろいろと話をした。それによると、お民の病気は肺で、町の狭くるしい、陰気な家にいては、ますます重くなるばかりだから、お祖父さんの発意で、こちらでゆっくり養生することになった、というのであった。
むろん、俊亮の経済的な窮迫とか、本田のお祖母さんの病人に対する仕打とかについては、一言も話されなかった。しかし、次郎は話をききながら、そうしたことについても、大ていは想像してしまった。
ひととおり話が終ると、俊亮が言った。
「実は、母さんがそんな事になったので、お前まで御厄介になるというわけにはいかんから、今日にもお前を町につれて帰ろうかと思っていたんだ。ところが、お祖父さんは、お前が母さんに孝行するのはこんな時だ、どうせ小学校を出るまでこのまま置いたらどうだ、とおっしゃって下さる。どうだ、お前に母さんの看病が出来るか。」
次郎は、母の看病のことを考える前に、町の陰気な部屋をひとりでに思い浮かべた。そして、その中で本田のお祖母さんに何もかも世話を焼いてもらう自分を想像してみた。彼は、その想像だけで、もう何も考えてみる必要を感じなかった。謙蔵伯父のことがちょっと頭にひらめかぬでもなかったが、母の看病をするという理由がある以上、これからはかえって誰にも気兼なしに、正木の家に居れるような気さえした。彼はむしろ勇み立つようにして答えた。
「僕、きっと母さんの看病が出来るよ。」
「そうか。では、どんなことをするんだい。」
俊亮はかすかに微笑しながら言った。
「看病ぐらい、わかってらあ。」
「わかってる? じゃ言ってみたらいいじゃないか。」
「薬をついでやったり、体をさすったりするんだろう。」
「それっきりか。」
「氷で冷やしてやることもあるよ。」
「それっきりか。」
「まだいろいろあるさ。」
「いろいろってどんなことだい。」
次郎は、父が変に皮肉を言っているような気がして、少し腹が立った。で、それっきり返事をしないで、そっぽを向いてしまった。
俊亮は、しばらくその様子を見まもっていたが、急におさえつけるような口調で、
「次郎、そんなことじゃ、お前にはまだ母さんの看病は出来ない。お祖父さんがせっかくああおっしゃって下さるが、やっぱり父さんと町に帰ることにしたらどうだ。」
次郎は驚いて父を見た。それから正木老人を見た。しかし、二人共恐ろしく真面目な顔をして、彼を見つめているだけだった。彼はますますうろたえて、祖母とお延を見た。しかし、この二人もにこりともしないで口を結んでいる。
こんなことは、次郎にとって全くはじめてであった。これまで彼が困った場合、彼を救ってくれるのは、いつも俊亮であり、正木の老夫婦であった。お延にしても、謙蔵に対する気兼から、際立《きわだ》って彼に味方をすることはなかったが、心の中では彼の肩を持ってくれている一人に相違なかった。それが今日は申し合せたように、冷たい眼をして彼を見守っている。
(これはただごとではない。)
彼はそんな気がした、しかし、どうしていいのか、さっぱりわからなかった。どんな場合にも、抜け道を見出すことにかけては本能的である彼も、自分の味方だと思っている人達に、こうおし默って見つめられていたのでは、手も足も出なかったのである。
彼は生まれてはじめて、本当の行詰りを経験した。箱の中に入れられて、押詰められるような感じである。たまらなくくやしい。しかも、そのくやしさの奥から、わけのわからぬ恐怖が入道雲のように押し寄せて来る。反抗も出来ない。皮肉な態度には無論なれない。かといって、この場を逃げ出すきっかけも見つからない。彼は泣くより外に道がなかった。
涙というものは、よかれあしかれ、大抵のことを結末に導いてくれるものである。次郎の涙は全くわけのわからぬ涙であったとしても、四人の心を動かすには十分であった。ことにこの場合は、次郎の涙は彼らによって待たれていたものだとも言えるのであった。
「泣くことなんか、ありゃしない。」
お祖母さんが先ず口を切った。
お祖父さんが、すぐそのあとについて、慰めるとも叱るともつかぬ口調で言った。
「ここにいたければ、いてもいい。じゃが、もっと素直な心になって貰わんと、みんなが困る。父さんもそれを心配していられるんじゃ。」
それを聞くと、次郎の頭には、すぐ謙蔵の顔が閃めいた。彼だけがこの席をはずしているわけも、どうやらわかるような気がした。しかし、それならそれで、はっきりそう言ってくれてもよさそうに思えた。何で父は、母の看病のことなんかで、あんな意地悪を言ったんだろう。そう思うと、やはりわけがわからない。次郎は、しくしく泣きながらも、頭の中は、かなり忙しく仂かせていた。
「お祖父さんのおっしゃる通りだ。」と、今度は俊亮が言った。
「もうお前も六年生だ。少しは道理もわかるだろう。少しのことにすねたりして、お祖父さんやお祖母さんに、いつまでも心配をかけるんじゃない。それに第一、――」と、少し間をおいて、
「伯父さんや叔母さんのご苦労は、これからなみ大抵じゃないんだ。何しろ病人を世話して下さるんだからね。この上、お前に変にひねくれた真似なんかされたんでは、この父さんが全く申訳がない。母さんだって落ちついて養生が出来ないだろう。お前は、母さんの看病ぐらい何でもないように言っているが、本当の看病はね、病人に気をもませないことなんだ。ことに母さんの病気は気分が何より大切だからね、もしこちらにいたけりゃ、第一、皆さんの言いつけを素直にきくこと、それに勉強、それから学校がひけたら、さっさと帰って来て、さっきお前が言ったように、母さんのお世話をすることだ。いいか。次郎。」
次郎はこれまで、こんなに立てつづけに、しかも厳しい口調で、父に教訓された経験がなかった。彼は、父特有ののんきな調子を、どこにも見出すことが出来なかったばかりか、かえって言葉のはしばしに、何かしら深い苦しみがにじみ出ているようにさえ感じた。
彼はやはり泣きつづけていた。しかし、もう彼の涙は、決してわけのわからぬ涙ではなかった。彼は父の立場を考えた。彼自身の立場を考えた。そして、何かしら非常に重たいものが、彼の五体にのしかかって来るような感じがした。
彼はむせびながら言った。
「父さん、悪かったよ。僕……僕……」
彼のこの謝罪には、少しの偽りもなかった。かといって、それは純粋な感情の表示でもなかった。この言葉の奥には、感情と共に理性と意志とが仂いていた。彼はもう一個の自然児ではなかった。複雑な人生に生きて行く技術を意識的に仂かそうとする人間への一転機が、この時はっきりと彼の心にきざしていた。それほど、彼は、彼自身と周囲との関係をおもおもしく頭の中に描いていたのである。
三四 牛肉
正木の家の離室が、お民の病室になったのは、それから三日の後であった。その三日間を、次郎は、深くものを考えるような、それでいてそわそわと落ちつかないようなふうで暮した。
お民は見ちがえるほど痩せていた。蒼白い額の皮膚が、冷たく骨にくっついて、その下から眼だけが澄みきって光っていた。次郎が学校から帰って来てはじめて彼女の病室に這入った時には、彼女はしずかに眠っていたが、間もなく眼をさまして彼の顔を見ると、いかにも淋しく微笑した。その微笑が、遠い世界からの不思議な暗示のように次郎の心を捉えた。そして蝋細工のような血の気のない唇の間から、真っ白に浮き出した歯が、生々しく次郎の眼にしみついた。
病室には、ほとんど正木のお祖母さんがつききりだった。で、次郎には大して用もなかったが、彼は、学校から帰ると、なるだけ病室を遠く離れないように努めた。そして、母の方からよく見える次の間の片隅に机を置いて、おさらいをしながら、お祖母さんが何か用を言いつけるのを待っているようなふうであった。
彼は、学校の帰りに道草を食ったり、一人で遊びに出たりすることはほとんどしなくなった。遊びに出るにしても、それは大てい従兄弟たちに誘い出される場合に限られていた。そして、そうした場合でも、彼は必ず病室にいるお祖母さんの許しを得てからにするのであった。で、あとでは、従兄弟たちも、次第に彼を特別扱いにするようになり、彼を誘い出すのを遠慮したり、忘れたりすることが多くなった。
だが、彼のこうした態度には、まだかなりの無理があった。病気の母に対する子として自然の感情からというよりは、この場合そうしなければならぬという義務的な気持の方が強かった。だから、従兄弟たちだけで自由にはしゃぎまわっている声がきこえたりすると、彼は変に落着かなかった。そして病気の母に対して淡い反感をさえ抱くことがあった。しかし、その反感を、少しでも、顔や言葉に表すようなことは決してなかった。
彼の変化は、むろん誰の目にもついた。そして、それがあまり著《いちじる》しいので、みんなを驚かせもし、涙ぐましい気持にもさせた。
「何といういじらしい子だろう。」
そう言って正木のお祖母さんは、おりおり袖口で目尻を拭いた。
「次郎のことだけが心残りだったんですけれど、こんなふうだと安心して死ねますわ。」
お民はよくそんなことを言っては、みんなを泣かした。
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