盟でも結んでいるかのような気になってしまった。
 誠吉は気の弱い子で、次郎の遊び相手としてはすこぶる物足りなかった。しかし、次郎は、いかなる場合にも誠吉の味方になることを忘れなかった。学校の往きかえりはもとより、戦争ごっこや、鬼ごっこや、隠れんぼなどで、誠吉が不利な立場に立っていると、何とかして彼を助けてやろうとした。また時としては、正木老夫婦や、謙蔵や、お延の前で、こまちゃくれた口の利きかたをして、誠吉の過失を弁護したりすることもあった。そんな場合、お延は迷惑そうな顔をして、次郎の出しゃばりをたしなめ、一層きつく誠吉を叱るのだった。次郎は、しかし、それはお延の本心ではなく、内心ではかえって自分に感謝しているのだと、一人ぎめに、きめてしまっていたのである。
 次郎のこまちゃくれたおせっかいも、この程度でとまって居れば、大したことにはならなくてすんだのであるが、あるはずみから、とうとう彼は、取りかえしのつかない失敗を演じてしまったのである。
 ある日次郎が、みんなより少しおくれて、学校から帰って来ると、土蔵と母屋との路地に、誠吉がしょんぼりとたたずんで泣いていた。わけを訊ねてみると、土蔵の白壁に鉛筆で落書きをしているところを謙蔵に見つかって、叱られたというのである。恐らくそれは、謙蔵が通りがかりに一寸注意した程度のものだろうと思われるが、かりそめにも、謙蔵に直接叱言をくったということは、誠吉にとって気味のわるいことだったに相違ない。次郎もむろん無関心では居れなかった。彼は、彼の頭に映っている謙蔵と、目の前にしょんぼり立って泣いている誠吉とを結びつけて考えながら、一種の義憤《ぎふん》にかられて来た。しかし、自分が全然知りもしないことを、いつもの通り誠吉のために弁解するのも変だ。また、かりに弁解するとしても、どう弁解すればいいのか、誰のところに持っていけばいいのか。これまでは叱り手が必すお延だったので、言い出しやすかったが、謙蔵に直接では、すこし勝手がわるい。――次郎はそんなことを考えているうちに、ますます謙蔵が悪い人のように思われて来た。
「次郎ちゃん、あやまっておくれよ。」
 誠吉は、口に指をくわえながら言った。次郎は、しかし、誠吉の弱々しい言葉をきくと、一層力みかえった。
「何だい? あやまることなんか、あるもんか。」
「だって、僕、見つかったんだもの。」
「見つかったって、何だい。久ちゃんだって、源ちゃんだって、みんな落書きしてらあ。」
 誠吉は、それはそうだ、と思った。しかしそう思っただけで、心はやはり落着かなかった。
「あやまらないと、僕母さんにも叱られるんだよ。」
「だって、叔母さん、まだ知らないだろう。」
「もう知ってるかも知れないよ。」
「叔母さんにも、言いつけるだろうか、あいつ。」
 誠吉は、次郎の「あいつ」と言ったのに、眼を見張った。次郎は、しかし、平気で言いつづけた。
「僕、あいつ、きらいだい。いつも叔母さんにばかり誠ちゃんを叱らすんだもの。」
 二人は、しばらく默りこんだ。次郎はやがて、何かふと思いついたように、
「誠ちゃんは、あいつを、いつも父さんって言うんだろう?」
「…………」
 誠吉は、いよいよ変な顔をして、次郎を見た。彼は、正木で生まれ正木で育ったので、従兄弟たちと一緒に、少しの無理もなく、謙蔵を父さんと呼びならわして来ている。彼が実の父でないことを、はっきり知っている現在でも、それだけは、彼にとって、ちっとも不自然には感じられないのである。
「父さんでもない人を、父さんなんていう馬鹿があるもんか。」
 次郎は、平気でそんなことを言った。彼はそれがいかに毒のある言葉であるかを、まだよく知らなかったのである。誠吉は、しかし、何となく恐ろしくなった。
 彼は心配そうに訊ねた。
「じゃ、何て言うの?」
「何とも言わなくったっていいや。僕だってもうこれからは伯父さんなんて言わないことにすらあ。だから、誠ちゃんも、父さんって言うの、よせよ。」
「だって、用がある時、どうする?」
「用なんかあるもんか、用があったら、僕、お祖父さんに言わあ。誠ちゃんも、お祖父さんに言えよ。」
「僕はお祖母さんが一等いいんだがなあ。」
「そんなら、お祖母さんでもいいさ。僕はお祖父さんにするから、誠ちゃんはお祖母さんにしろよ。」
「でも、母さんは、何でも父さんにきかないと、いけないって言うよ。」
「馬鹿にしてらあ。お祖父さんが一番の大将だよ。あいつなんか、他所《よそ》から来たんだい。」
 次郎はそう言って、得意らしく顔をあげた。すると、驚いたことには、すぐ鼻先の土蔵の窓から、人の顔がのぞいていた。
 それは、ちらっと見えてすぐ消えたが、謙蔵の顔らしかった。次郎は急にそわそわし出した。彼は、何か言おうとする誠吉を、手で制しておいて、土蔵の窓に注意を払いながら、及び腰になって、路地の入口まで忍んで行った。
 土蔵の戸口には、果して謙蔵が、大福帳をぶらさげて石のように突っ立っていた。次郎ははっとして後じさりしようとした。しかし、もうその時には、異様な輝きをもった謙蔵の眼が、青ざめた額の下から、ぐっと次郎を睨んで放さなかった。
 次郎はすぐ地べたに眼を落した。しかし彼は、自分の右の頬に、いりつくような謙蔵の視線をいつまでも感じていた。
 あたりはしいんとしていた。路地の奥では、誠吉が、次郎が何をしてるかを心配しながら待っていた。
 やがて、土蔵の戸口から足音がして、次郎の首垂《うなだ》れている顔の前をゆっくり通りぬけた。その足音は、一つ一つ、次郎の鼓膜《こまく》を栗のいがのように刺戟した。
 次郎が、やっと自分を取りもどして、誠吉のところに帰って行ったのは、それから二三分も経ってからであった。彼は、誠吉に何をきかれてもはっきりした返事をしなかった。彼は何とかごまかしながら、そのまま誠吉を誘って、村の中を、あちらこちらと日暮ごろまで遊びまわった。
 その後、この事件がどんな結果になったかは、謙蔵と次郎だけが知っていた。謙蔵は誰にも次郎の不届きなことを話さなかった。次郎もまたあくまで沈默を守った。誠吉は、次郎との会話を謙蔵に聞かれたとは思っていなかったし、また次郎の言ったことが、人に知られてはならないことのように思われたので、やはり口をつぐんで母にも言わなかった。
 謙蔵と次郎の視線は、それっきりめったに出っくわすことがなかった。万一出っくわしても、次郎の視線は、謙蔵の剣のような視線によってすぐ弾《はじ》きとばされた。弾きとばされたのは、彼の視線ばかりではなかった。次郎は謙蔵の眼をさけるために、いつも自分の体の置きどころを考えなければならなかった。――以前からも、彼は謙蔵を避けるふうがあったが、その当時とは意味がまるでちがって来たのである。――彼はなるべく学校のかえりをおくらす工夫をした。出来るだけ魚釣に出た。近所の農家が忙しくて遊び相手がないと、進んでその手伝いもやった。しかし日暮になって家の近くまで帰って来ると、彼の胸には、いつも鉛のような重いものが、のしかかって来るのだった。
 彼は、謙蔵を伯父さんとは決して呼ばなくなった。しかしそれは、そう呼ぶのがいやだったからというよりは、呼びたくても、もうそうは呼べなかったからであった。謙蔵に何か言わなければならない用を、老夫婦やお延に言いつかると、彼はいつもそれを、巧みに誠吉や他の従兄弟たちに譲った。そして、彼らが――誠吉もまた――謙蔵を「父さん」と呼んで、こだわりなく用をすましているのを陰で聞きながら、自分一人が、彼らにまで、のけ者にされているような感じになるのだった。
 かように、正木の家の明るい空気の中で、謙蔵の胸には次郎が、次郎の胸には謙蔵が、いつも黒いかたまりになって、こびりついていた。だが、それはあくまで二人きりの問題であった。老夫婦も、お延も、しばらくは、まるでそんなことには気がついていないらしかった。誠吉ですらも、自分以上に次郎が謙蔵を窮屈がっているとは、ちっとも考えていなかった。
 こうして正木の家も、次郎にとって、完全に幸福な家ではなくなってしまったのである。

    三三 看病

 そのうちに、一年半の歳月が流れて、次郎もいよいよ六年生になった。
 学校では、上級学校入学志望の子供たちに対して、学年始から、特別の課業が始められた。次郎も、その教室に出入りする一人だった。彼は、雲雀《ひばり》の囀《さえず》る麦畑の間を歩きながら、竜一たちと、ほのかな希望を語りあったりするのであった。
 次郎と謙蔵との間の黒い影は、その後、時がたつにつれて、いくらかずつぼかされていった。そして、ごく稀にではあったが、次郎の唇からも、「伯父さん」という言葉が洩れるほどになった。しかし、何もなかった以前の気持にかえることは、むろん望めないことだった。それに、永い間には、二人の間の感情が、老夫婦や、お延の眼に映らないでいるはずがなかった。で、黒い影は、ぼかされていく一方、そろそろと家じゅうの人たちの胸に薄墨のようにしみていくのであった。
 しかし、誰の心にも、次郎がこの家にいるのも、もうあと一年だ、という考えがあった。そして、謙蔵は舅《しゅうと》や姑《しゅうとめ》に対する義理合から、お延は姉のお民に対する思わくから、老夫婦は、次郎本人に対する愛と俊亮に対する面目から、それぞれあと一年を我慢することにした。もっとも、老夫婦はただ我慢するというだけでなく、これからの一年間にいくらかでも次郎の性質を、矯《た》め直して、謙蔵にもよく思われ、俊亮夫婦にも喜んで貰いたいという気持で一ぱいであった。
 次郎は、そうした間にあって、いよいよませ[#「ませ」に傍点]て来た。
 そして、世間というものがいくらかずつわかり出すと、もう自分の家と親類の家とをはっきり区別して、自分が現在どんな位置に居るかを考えずにはいられなくなって来た。
(自分はこの家で生まれた人間ではない。誠吉なら威張ってこの家の飯を食って居れるが、自分はそういうわけにはいかないのだ。)
 こんなことに気がつき出した彼は、変に何事にも用心深くなった。そしてこれまで謙蔵に対してだけ感じていた窮屈さを、この家のすべての人に対して感じるようになり、祖父や祖母に対してすら何かと気兼《きがね》をするようになった。また、雇人たちが彼に向かって軽口をたたいたり、ちょっと手伝いを頼んだりすると、何だか侮辱されたような気がして、以前のように気軽にそれに受答えすることが出来なくなってしまった。
 それに、何よりも、彼に変に思われ出したのは、このごろのお祖父さんやお祖母さんの素振《そぶり》に、何か彼にかくし立てをしているようなところが見えることであった。二人共、最近しげしげと本田を訪ねるのに、いつも次郎には知らさないで出て行ってしまった。帰って来ても、本田の話をするのを、なるだけ避けようとするふうがあった。
「町になんか行くひまに、うんと勉強して、お前も来年は中学生になることじゃ。」
 これが、彼を町につれて行かなかった場合の、お祖父さんのいつもの口癖であった。するとお祖母さんも、すぐそのあとについて、
「恭一は優等で二年になったそうだよ。」
 と、きまり文句のように言うのであった。
 次郎は、そんなふうに言われると、いよいよ疑ぐり深くなった。彼は、本田と正木との間に、自分のことについて、何かこそこそと相談しあっているのではないかと疑ったりした、こうして彼の幼いころからの孤独感は、ますます色が濃くなっていくのであった。
 そろそろ夏が近づいて来た。ある日、彼が学校から帰って来て、子供部屋になっている二階に上ろうとすると、座敷の方から、思いがけない俊亮の声が聞えて来た。彼は、はっとして梯子段を上りやめて、そっと声のする方をのぞいてみた。すると、そこには、老夫婦に、謙蔵、お延、俊亮の五人が真面目くさった顔をして坐っていた。彼らは、次郎が梯子段《はしごだん》を上る音で話をやめ、一せいにこちらを見たらしかったが、誰の顔も石像のように固かった。ひさびさで逢った俊亮です
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