どうじゃな、次郎、面白かったのか。」
「面白くなんかありません!」
次郎は憤然《ふんぜん》として答えた。
「面白くない?……ふむ。」
と、正木のお祖父さんは、静かに眼をつぶって、また顎鬚《あごひげ》をしごいた。
「でも、見るものではないって、あれほどあたしが言うのに、よく一日見て居れたものだね。」
お民が白い眼をして言った。
「僕、刀やなんかが、誰んとこにいくか、見てたんだい。」
次郎の言った意味は、誰にもはっきりしなかった。三人は言いあわしたように、次郎の顔を見つめた。
「でも、竜ちゃんとこに沢山いったから、いいや。」
正木のお祖父さんは、ほっと吐息をもらした。それから静かに手招《てまね》きして、
「次郎、ここにお坐り。」
次郎が気味わるそうに坐ると、
「人を恨むんじゃないぞ。買って下さる方は、みんな親切な方じゃ。……なあに、要らないものを売って、要るものに代えるんだから、ちっとも構わん。いいかの、次郎。」
次郎は、そう言っているお祖父さんを、妙に淋しく感じた。彼は默っていた。すると、お祖父さんは、また言った。
「刀が欲しいのか。刀なら、このお祖父さんのうちに行けば沢山ある。」
「僕、欲しくなんかないけれど、僕、なんだかいやだったよ。」
次郎は、自分の気持を言いあらわす言葉に困って、やっとそれだけを言った。
「いやなのに、見ていたのかい。」
お民がすぐ問いかえした。
「恭一なんか、いやがって覗こうともしなかったのにね。」
と、お祖母さんが、それにつけ足した。
正木のお祖父さんは、にがりきって、また顎鬚をしごいた。
そこへ俊亮と竜一の父とが、晴れやかな笑い声を立てながら、這入って来た。俊亮は、正木老人を見ると、急にあわてて、
「やっ、これは……」
と、いかにも恐縮したらしく、その前に坐って両手をついた。
次郎の眼には、父のそうした姿勢が全く珍しかった。彼は、ゴム人形の膝を無理に曲げて坐らしたときの恰好を心に思い浮かべて、可笑しくなった。
「もうすっかりすみましたかな。」
老人は、いかにも物静かに言って、俊亮と竜一の父とを見くらべた。
「全く面目次第もないことで……」
と、俊亮はその丸っこい膝を何度も両手でさすった。
「いや、どうも、実は私も今日はじめて、承りまして、おどろいているような次第で……」
と、竜一の父は、俊亮の助太刀《すけだち》でもしているかのような口調《くちょう》だった。
「皆さんにご心配をかけます。」と、老人は丁寧に頭を下げた。それから、しばらく何か思案《しあん》していたが、急に俊亮を見て、
「ふいと思いついたことじゃが、次郎をしばらくわしの方に預からして貰えませんかな。」
みんながてんでに顔を見合わせた。次郎は先ず母を見た。次に父を見た。それから祖母をちらっと横目で見て、視線《しせん》を正木のお祖父さんに移した。
「次郎、どうじゃ、当分わしの方から学校に通うては。」
「……………」
次郎は返事をする代りに、再び父の顔を見た。
「いや、よく解りました。どうかお願いします。」
と、俊亮は、ちらっと次郎を見ながら言った。みんなは変におし默っていた。
もう随分|晩《おそ》かったが、正木の老人は、その晩のうちに次郎を連れて帰ることにした。次郎は、何のために自分が正木の家に預けられるのか解らなかった。しかし、彼は、それを決して不愉快には思わなかった。むしろ、何もかも忘れて、いそいそと出て行った。ただ真っ暗な路を、村はずれまで歩いて来た時に、彼は、ふと、竜一と春子とのことを思い出して、急に泣きたいような淋しさを覚えた。
その後、彼の足の下で、ぴたぴたと鳴る草履の音が、いやに耳につき出して、彼の気持はいつまでも落ちつかなかった。
二九 北極星
「星がきれいだのう。」
正木の老人は、ゆったりと歩を運びながら、独言《ひとりごと》のように言った。秋近い空はすみずみまで晴れて、凪《な》ぎ切った夜の海のように拡がった稲田の中に、道がしろじろと乾《かわ》いていた。
次郎は空を見上げただけで、返事をしなかった。彼は、正木のお祖父さんに十分な懐しみを感じ、二人きりで夜道を歩くのを誇《ほこ》らしいとさえ思いながらも、ふだん正木の家に行く時のように、朗らかにはなれなかった。彼は、まだ、老人の気持を計りかねていたのである。
(なぜだしぬけに、僕を預るなんて言い出したんだろう。)
この疑問は、一足ごとに深まっていった。竜一や春子に遠ざかる淋しさが、それにからみついた。そして家の没落ということが、次第にはっきりした意味を持って、彼の胸にせまって来るのだった。
彼の眼のまえには、売立の光景がまざまざと浮かんで来た。散らかった品物の間から、いろんな表情をした人たちの顔が現れて来る。そして、時おり、微笑を含んだ父の顔が糸の切れた風船玉のように、彼の鼻先に近づいて来る。彼は、父の微笑の中に、ついさっきまで気づかなかった、ある淋しい影を見出した。そして、彼の気持は、いよいよ滅入るばかりだった。
「次郎、あれが北極星じゃ。」
正木の老人は、ふいに道の曲り角で立ち止まって、遠い空を指さした。
次郎は、指さされた方に眼をやったが、どれが北極星だが、すこしも見当がつかなかった。彼の眼には、まだ父の顔がぼんやりと残っていて、その顔の中に、星がまばらに光っていた。
「学校で教わらなかったかの?」
「ううん。」
「ほうら、あそこに、柄杓《ひしゃく》の恰好《かっこう》に並んだ星が、七つ見えるだろう。わかるな。あれを北斗七星というのじゃ。」
次郎は、やっと自分にかえって、老人の説明をききながら、一つ一つ指さされた星を探していった。そして最後に、やっとのこと、北極星を見出すことが出来たが、その光が案外弱いものだったので、彼は何だかつまらなく感じた。
「海では、あの星が方角の目じるしになるのじゃ。あれだけは、いつも動かないからの。」
老人はそう言って歩き出した。次郎はこれまで星が動くとか、動かないとかいうことについて、全く考えたこともなかったので、老人の言うことを、ちょっと珍しく思った。
「外の星はみんな動いています?」
「ああ、大てい動いている。あの七つの星も、北極星のまわりを、いつもぐるぐる廻っているのじゃ。一時間もたつと、それがよくわかる。」
いつまでも動かない星、――それが、ふと、ある力をもって、次郎の心を支配しはじめた。彼は歩きながら、ちょいちょい空を仰いで、北極星を見失うまいとつとめた。そして、これまでに経験したことのない、ある深い感じにうたれた。「永遠」というものが、ほのかに彼の心に芽を出しかけたのである。
彼は、本田のお祖父さんの臨終のおりに、ちょっとそれに似た感じを抱いたことを、記憶している。しかし、それはほんの瞬間で、しかもその時の感じは、お祖母さんのいきさつのために、ひどく濁《にご》らされていた。今夜の感じには、それとは比べものにならない、澄みきった厳粛さがあった。
しかし一方では、彼の草履の音が、ぴたぴたと音を立てて、たえす、彼の耳に、彼自身の運命を囁いているかのようであった。
(恭ちゃんや俊ちゃんは、何があっても、平気で家に落ちついていられるのに、自分だけが、なぜ乳母やの家かち本田の家へ、本田の家から正木の家へと、移って歩かねばならないのだろう。一たい、何処が自分の本当の家なのだ。)
(父さんはこれから、何処へ行くのだろう、そして何をするのだろう。乳母やとは、あれっきり、一度も逢ったことがないが、父さんにもこれっきり、逢えなくなるのではなかろうか。)
そうした疑問が、次から次へと、彼の頭の中を往来した。むろん、永遠とか、運命とかいうようなことを、はっきりと意識する力は、まだ少年次郎にはなかった。ただ、彼には、ふだんとちがった、厳粛な淋しさがあった。そして、星の光と草履の音との交錯《こうさく》する中を、默りこくって老人のあとについて歩いた。
「眠たいかの。」
「…………」
「こける[#「こける」に傍点]といけない。手をつないでやろう。」
次郎の手を握った老人の掌は、しなびていた。しかし、その皮膚の底から、柔かに伝わって来るあたたか味にふれると、彼はしみじみとした喜びを感じた。そして、急に明るい気分になって訊ねた。
「僕、お祖父さんとこに、いつまでいるの?」
「いつまででもいい。」
「いつまででも?」
そう言った次郎の心には、再び不安と喜びとがもつれあっていた。
「早く帰りたいかの。」
「ううん。」
次郎は首を横に振った。しかし、思い切って振れないものが、何か胸の底に沈んでいた。
「帰りたくなったら、いつでも帰っていい。だが…」
と、老人はしばらく考えてから、
「お前の家には、誰もいなくなるかも知れない。」
この言葉は次郎の胸におもおもしく響いた。動かぬ星と草履の音とが、ひえびえと彼の心を支配した。彼は泣きたくなった。
「しかし、心配することはない。人間というものは、心が大切じゃ。心さえ真っ直にして居れば、家なんかどうにでもなる。」
次郎には、その意味がよく呑み込めなかった。そして彼の前には、再び父の淋しい顔があらわれた。
(お祖父さんは、父さんの心が真っ直でない、と言うのだろうか。いや、そんなわけはない。父さんほど真っ直な人はないはずだ。これまでだって、僕が悪くない時に、僕を叱ったことなんか一度だってないんだから。)
が、次郎は、その時、ふと、父が非常に酒好きなことを思い出した。
父は一人で飲むだけでなく、よくいろんな人を呼んで来ては、相手をさせるのだったが、ある晩の如きは、近在のごろつき[#「ごろつき」に傍点]仲間と言われた五六人の若い者を呼んで来て、次郎にお酌をさせながら、晩くまで飲んだ。何でも喧嘩の仲直りらしかったが、次第に酒がまわるにつれて、ほんの一寸した言葉のゆきちがいから、また喧嘩になってしまった。最初に啖呵《たんか》を切り出したのは眉の濃い、眼玉のどんよりした、獅子っ鼻の大男だった。彼は子供のころ、饅頭《まんじゅう》の売子をしていたため、「饅頭虎」と綽名《あだな》されていた。彼が食ってかかった相手は、「指無しの権《ごん》」だった。小指を一本切り落されていたので、そういう綽名がついていたが、青い顔の、見るからに辛辣《しんらつ》そうな、痩ぎすの男だった。
「旦那をおいて、貴様のその言い草は何てこった。」
といったようなことから始まって、口論は次第に烈しくなった。饅頭虎が、咄々《とうとつ》と嗄《しゃが》れ声で物を言うのに対して、指無しの権は、ねっちりした、しかし、突き刺すような皮肉な言葉をつかった。父は、はじめのうちは、默って二人の口論を聴いていた。しかし、それが次第に険悪になって、今にも立ち廻りが始まりそうになると、急にいずまいを正して、
「虎! ……権!」とつづけざまに大喝《だいかつ》した。そして、いきなり両肌をぬいで、
「それほど喧嘩がしたけりゃ、斬り合うなり、突き合なり、勝手にするがいい。だが、おれも一旦仲にはいったからには、おれの眼玉の黒いうちは困る。先ずおれの方を片づけてからにして貰おうかな。」
そう言って、父は自分の胸を拳でぽんと叩いた。二人は父にそうどなられると、すぐべたりと坐って、平身低頭した。
次郎は、父のすぐ横に坐って、その光景を見ていたが、一面恐怖を感ずると共に、父の英雄的な態度に対して身ぶるいするような感激を覚えた。そして、彼自身が仲間と喧嘩をする場合の、すばしこい、思い切った遣口《やりくち》が、こうしたことに影響されていなかったとは、決していえなかったのである。
*
だが、正木の老人と手をつないで、静かな星空の下を、今こうして歩いていると、そんな思い出が、何となくつまらないことのように思えてならなかった。
(父さんは、あんなことを真面目な気持でやったのだろうか。第一、あんな人たちと酒を飲んだりするのは、いいことだろうか。もしかすると、あんなことのために、家がだんだん貧乏になってしまったのか
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