ずれ家も売る事にしているんだから。」
「えっ!」
「実は、家だけはそうもなるまいと考えてたんだが、商売をやるとなると、その資本が要るんでね。」
「貴方、大丈夫? やけくそにおなりになったんではありません?」
「そうでもないさ。」
「それで、お母さんには、もうお話しなすったの。」
「いいや、まだ話さん。お母さんはどうせ反対するだろうからな。」
「あたし、何だか恐くなりましたわ。」
「実はおれも少し恐い。しかし、このままでこの村にいたんでは、どうにもならんからな。」
俊亮とお民とは、子供たちが寝床につくのを待って、ひそひそとそんな話をはじめた。寝間はすぐ次の部屋だったが、次郎はまだ寝ついていなかったので、ついそれを聞いてしまった。そして、父が太っ腹過ぎて困るとか、お祖父さんが死んだら、あとが大変だとか、そういった話を、これまでにちょいちょい耳にはさんでいたので、彼はそれと結びつけて、今夜の二人の話をおぼろげながら理解した。
彼は、しかし、父が商売人になるのを、大して悪いことだとは思わなかった。そして、この村の荒物屋や、薬屋などの様子を思い浮かべて、頭の中で、自分をそれらの店の小僧に仕立ててみたりした。朝から晩まで父と一緒に仂ける、――そう考えると、彼はむしろ嬉しいような気にさえなった。
だが、彼の眼には、間もなく竜一と春子の姿がちらつき出した。
(町に行ってしまうと、もうめったに二人には逢えない。)
そう思うと、彼は滅入《めい》るように淋しかった。――父と一緒に仂く方がいいのか、毎日竜一の家で遊ぶ方がいいのか。――彼はそんなことを考えて、俊亮とお民が寝たあとでも、永いこと眠れなかった。
二七 長持
俊亮は、それ以来、土曜日曜にかけて帰って来るごとに、必ず一度は二階に上って、箪笥や長持の中を覗いた。そして、いつもその中から、刀剣類や、軸物《じくもの》や、小箱などを、いくつかずつ取出して風呂敷に包んだ。
次郎には、それが何を意味するかが、すぐわかった。彼は、そんな時には、いつもそ知らぬ顔をして俊亮のそばにくっついていた。次郎にくっついていられることは、俊亮にとっては、少なからず迷惑であった。しかし、彼は強いて次郎を追払おうとはしなかった。だんだん度重なるにつれて、却って品物の説明などして聞かせることもあった。そして、いつの間にか、風呂敷に包まれなかった品物をもとのところに納めるのが、次郎の役目のようになってしまった。
これまで、茶棚や、戸棚や、火鉢の抽斗《ひきだし》ぐらいより覗いたことのなかった次郎は、長持や、箪笥の奥から、桐箱などに納められた珍しい品物が、いくつも出て来るのを見て、全く別の世界を見るような気がした。彼は、ともすると、暗い長持《ながもち》の底を覗きこんで、亡くなったお祖父さん、そのまたお祖父さんというふうに、遠い昔のことなど考えてみた。そして何とはなしに、家の深さというものが、次第に彼の心にしみて来た。そのために、彼はこれまでとは幾分ちがった眼で家の中のあらゆるものを見まわすようになった。
が、同時に彼は、美しい鍔《つば》をはめた刀や、蒔絵《まきえ》の箱や、金襴《きんらん》で表装《ひょうそう》した軸物などが、つぎつぎに長持の底から消えていくのを、淋しく思わないではいられなかった。俊亮は、むろん彼に何も話して聞かせなかったし、彼もまた訊ねてみようともしなかったが、風呂敷に包まれた品物が、その度ごとに、俊亮の自転車に結《ゆ》わえつけられて、人目に立たぬように何処かに持ち出されるのを、彼はよく知っていたのである。
風呂敷包が出来あがる頃には、大てい、お民が足音を忍ばせるようにして、二階に上って来た。そしてその包みの中を一応あらためてから、きまって右手を襟につっこんで、軽い吐息をもらした。
「貴方、その品だけは、もっとあとになすったら、どう?」
彼女は時おり、力のない声で、そんなことを言った。しかし、俊亮の答は、いつもきまっていた。
「晩《おそ》かれ早かれ、一度は始末するんだ。」
次郎は、そんな時には、不思議に母に味方がしてみたくなった。そして、長持に突っこんだ顔を、そっと父の方にねじ向けるのだった。
しかし、彼の視線《しせん》がまだ父の顔に届かないうちに、それを途中でさえぎるのは、母の鋭い声だった。
「次郎、もういいから、お前は階下《した》に行っといで。」
そう言われると、次郎の母に味方したいと思った感情は、一時にけし飛んだ。同時に、長持の中の品物なんかどうだっていい、という気になった。そして、あとに残るのは、父に対する親しみの感情だった。
だが、こうした秘密な売立《うりたて》も、そう永くは続かなかった。
ある日次郎は、父が小用か何かに立ったあと、一人で長持の前に坐って、長い刀を、おずおず半分ばかり引きぬいて、その鏡のような刃に見入っていると、うしろに足音がした。何だか父の足音とはちがうと思って、ひょいと振り向くと、そこにはお祖母さんが立っていた。次郎はびっくりして刀をぱちんと鞘《さや》に収めた。そして、あたりに散らかっている品物を、急いで木箱に収めにかかった。彼は、お祖母さんには万事秘密だということを、はっきり言い聞かされていたわけではなかったが、何とはなしに、秘密にしなければならないような気がしていたのである。
「次郎!」
と、お祖母さんの声は、物凄い慄《ふる》えを帯びていた。
「お前は一たい、そこで何をしているのだい。」
次郎はちらりとお祖母さんの顔を見た。すると、その顔は、蛙が喉をわくわくさせている時のような顔に見えた。
彼はどうしていいのか解らなかった。で、坐ったまま、視線をあちらこちらにそらした。半ば引き出されたままの箪笥の抽斗や、蓋をあけた長持や、木箱や、金蒔絵や、青い紐などが、雑然と彼の眼に映った。彼はますますうろたえた。
「いつの間に、お前はこんなことを覚えたのだい。」
そう言って、お祖母さんは、二三歩彼に近づいて来た。次郎は押されるように、窓ぎわににじり寄った。
「次郎!」
お祖母さんのいきりたった声が、次郎の膝の関節をぴくりとさせた。もしその時、お祖母さんのうしろに、厳粛な、それでいて、どこかに笑いを含んだ父の顔が見出されなかったら、次郎は、あるいは二階の窓から、逃げ出そうと試みたかも知れない。
「次郎のいたずらじゃありません。」
俊亮は、散らかった木箱を跨《また》ぎながら、そう言って、次郎のすぐそばに、どっしりと坐りこんだ。
次郎は一先ずほっとした。しかし、父と祖母との間に何事か起りそうな気がして、何となく不安だった。
お祖母さんは、まだ胡散臭《うさんくさ》そうに、次郎の顔と、散らかった品物とを見|較《くら》べていたが、ふと思いついたように、長持のそばに寄って行って、その中を覗きこんだ。そして、しばらくは頻りに小首をかしげていたが、そのまま箪笥の方に歩いて行って、開いている抽斗は無論のこと、袋戸棚から小抽斗に至るまで、引っかきまわした。
俊亮は、その間、默然と坐って腕組みをしていた。
「俊亮や――」
お祖母さんは、べたりと俊亮の前に坐ると、下からその顔を覗きこむようにした。
「相すみません。」
俊亮は、しずかにそう言って、やはり腕組みをつづけていた。
次郎は、一心に、父の様子を見守った。彼はこれまで、父に対してだけは、心からしみじみとした感じになれたのであるが、こうして祖母の前にかしこまりながら、しかも、どこかにゆとりのある態度で坐っている父の様子を見ると、悲しいような、嬉しいような、何とも言えない感じになっていくのだった。
「こないだから、すこし可笑《おか》しいとは思っていましたが、……ま……まさか、一周忌もすまないうちに、こ……こんな……」
お祖母さんは、俊亮の前に突っ伏して、声をとぎらした。
「次郎、お前は階下《した》で遊んでおいで。」
俊亮は、やはり腕組みをしたまま、わずかに顔を次郎の方にふり向けて言った。
次郎はすぐ階下に降りたが、何だか気がかりで、梯子段の近くをうろうろしていた。そのうちにお民が二階にあがって行った。三人の話し声はいつまでも続いた。次郎は、祖母と母の泣き声にまじって、おりおり聞える父の簡単な、落着いた言葉に耳をそばだてたが、何を言っているのかは、少しもわからなかった。
二八 売立
大っぴらな売立が始ったのは、それから間もなくであった。
ある日、朝早くから、洋服を着た人や、角帯を締めた人たちが、五六人やって来て、目ぼしい品物をすっかり座敷に並べて、大声で叫んだり、小さな紙片に何か書いて、ボール箱の中に投げこんだりした。村じゅうの人たちが、庭一ぱいに集まって来て、それを見物した。中には、洋服や角帯の人たちと一緒になって、紙片を投げこむ者もあった。
人だかりの割に、変にぎごちない空気が、全体を支配した。めったに誰も笑わなかった。角帯の人たちは、おりおり下卑《げび》たことを言って、みんなを笑わせようとしたが、村人たちは顔を見合わせて、かえってにがい顔をした。女の人もかなり来ていたが、中には、そっと眼頭をおさえている者すらあった。ただ俊亮だけが、いつも微笑を含んでいた。
次郎は、そうした人達の表情を、ほとんど一つも見逃がさないで見ていた。俊亮のほかに、家の者でその場に顔を出していたのは、次郎だけだった。彼は、しばしば茶の間から、母に呼びつけられて、
「子供の見るものではない。」
と叱られたが、どんなに叱られても、彼は、また、いつの間にか座敷にやって来ていた。
彼の心をひかれた品物が誰の手に渡るのか、そして、その人がどんな顔付をして、品物を受取るのか、それが、無性に見たくて仕方がなかったのである。
売立が始まってから、二時間もたった頃、竜一の父が診察着のままで、あたふたとやって来た。そして、俊亮に何かこそこそと耳打ちした。しかし俊亮は、
「御好意は有難う。だが、いずれ一度は始末をつけなければならんのでね。……いや、全くどちらにも相談なしさ。」
竜一の父は、軽くうなずいた。そして、すぐ角帯や洋服の間に割りこんで行って、どの品にも札を入れた。
眼ぼしい品がつぎつぎに彼の手に渡された。角帯や、洋服は、変な眼付をしておたがいに顔を見合わせた。次郎は、それが何を意味するのか、ちっとも解らなかった。彼はただ、いい品物がたくさん竜一の家にいくのだと思うと、いくらか安心した。
売立は夜の十時頃までつづいて、眼ぼしい品は大てい片づいた。残ったのは、虫の食った挟箱《はさみばこ》や、手文庫、軸の曲った燭台《しょくだい》、古風な長提灯《ながちょうちん》、色の褪《あ》せた裃《かみしも》といったような、いかにもがらくたという感じのするものばかりであった。
みんなが引上げたあと、俊亮と竜一の父とは、座敷に残って、何かひそひそと話し出した。俊亮は、次郎が、まだ、残っていたがらくたを眺めながら立っているのを見て、
「何だ、お前まだ起きていたのか。馬鹿だな。早く寝るんだ。」
と、いつになく、きびしい顔をして叱った。
次郎が、茶の間に這入って驚いたことは、いつの間に来たのか、正木のお祖父さんが、白い鬚《ひげ》をしごきながら、端然《たんぜん》と坐っていることであった。お祖父さんの前には、お民とお祖母さんとが、悄然《しょうぜん》と首を垂れていた。次郎は、正木のお祖父さんの顔を見ると、急に、今まで売立を見ていたのが、何か非常に悪いことのように感じられだした。で、後の方から、いそいでお辞儀をして、すぐ寝間に行こうとした。するとお祖父さんは、
「次郎は相変らず元気じゃな。」
と、彼の方をふり向きながら、眼元に微笑をたたえて言った。
「ええ、ええ、もう元気すぎて、さきざきどうなるものでございますやら。家《うち》がこんなになるのも平気だと見えまして、一日じゅう、ああして売立を見物しているのでございますよ。」
お祖母さんは、そう言って、いかにもわざとらしい、ふかい吐息をついた。
「ほほう、見ていましたか。……
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