の外で足拍子を踏んだ。
「まあ憎らしい。……次郎ちゃん、我慢するのよ。」
春子は、生籬の方を向いたまま、右手をうしろの方で振って、次郎をなだめるような恰好をした。が、もうその時には、次郎は縁台の近くにはいなかった。彼は裸のまま、いつの間にか門の方へ廻って、子供たちの群に襲《おそ》いかかっていたのである。
生籬の外では、忽ち大乱闘《だいらんとう》が始まった。
「わあっ。」
という子供の悲鳴。捧切のふれ合う音。折り重なった黒い人影。
「誰か早く来て!」
春子は金切声をあげた。
竜一の家の人たちが飛び出して、みんなを取鎮《とりしず》めた時には、次郎は四五人の子供たちによってさんざんに棒切れで撲られているところだった。しかし、不思議にも、悲鳴をあげていたのは彼ではなかった。彼は自分の体の下に、しっかりと一人の子供をおさえつけて、その頬ぺたを、両手でがむしゃらに掴《つか》んでいたのである。一人の子供というのは、いうまでもなく由夫であった。由夫の顔は、次郎の爪で、さんざんに引っかかれていた。
しかし次郎の傷は一層ひどかった。彼の裸の体は、方々紫色に腫れ上っていた。ことに後頭部にはかなり大きな裂傷《れっしょう》があって、血が背中や胸にいくすじも流れていた。彼が明るい電燈の下に、歯を食いしばった姿を表した時には、春子をはじめ、みんなが顔色を真っ青にしたほどだった。
傷は竜一の父に二針ほど縫って貰った。春子は繃帯《ほうたい》をかけてやりながら、半ば独言《ひとりごと》のように言った。
「私、お母さんにすまないわ。傷が治るまで次郎ちゃんをお預りしようかしら。」
次郎はそれを聞くと、眼を輝やかした。しかし、まだ繃帯を結び終らぬうちに、廊下にあわただしい足音がして、母のお民が診察室に顔を現した。そして次郎は間もなくつれて行かれた。
二五 姉ちゃん
次郎の頭に巻かれた繃帯は、学校じゅうの注目の焦《しょう》点になった。誰もそれを彼の敗北のしるしだと思う者はなかった。このごろ少し落目になっていた彼の勇名は、そのため完全に復活した。上級の子供たちまでが、学校の往き帰りに、彼に媚《こ》びるようなふうがあった。由夫とその仲間たちは、いつもびくびくして彼を避けることに苦心した。
次郎は、しかし、みんなのそうした様子には、まるで無頓着《むとんちゃく》なような顔をしていた。彼はともすると、むっつりして、ひとりで何か考えこんだ。それが子供達を一そう気味悪がらせた。
「打ちどころが悪ければ、死ぬところだったね。」
彼は、事件のあとで、いろんな人にそう言われたのを、おりおり思い出す。しかし彼は、そう聞いても死ぬのが怖いという気にはちっともなれない。生籬の根もとに、血まみれになってぐったりと倒れている自分の姿を想像してみても、さして痛切な感じが起るのでもない。死ぬなんて何でもないことだ、というような気がする。
だが、彼は、自分の死骸を想像すると同時に、きっと、その死骸を取り巻いている多くの人々を想像する。すると、彼の心は決して平静であることが出来ない。それは、そのなかに、父や、母や、祖母や、春子などの顔が、さまざまのちがった表情をして現れて来るからである。祖母の顔を想像すると、彼は、何くそ、死ぬものか、という気になる。父や春子の顔を想像すると、哀れっぽい甘い感じになって、死ぬことを幸福だとさえ思う。
(ところで、母さんはどんな顔をするだろう。)
彼はいつも、一生懸命で母の表情を想像してみるのだが、どういうものか、ほかの人たちの顔ほど、はっきり浮かんで来ない。そして、時とすると、母の顔が、ひょいとお浜の顔に変ったりする。無論それは非常にぼやけている。しかしお浜の顔が浮かんで来ると、しみじみと死んではならないという気になる。そして、想像の世界から急に現実の自分にかえって、お浜の思い出にふけるのである。
だが、お浜の記憶は、もう何といってもうっすらとしている。そして寂しい。そんな時に、彼の心を明るいところにつれもどしてくれるのは、いつも竜一である。竜一は、別に次郎の気持を知っているわけではなく、むろん自分で彼をどうしようというのでもないが、学校の休み時間などに次郎が一人でいるのを見つけると、すぐそばに寄って来る。すると次郎はすぐ、春子に繃帯を取りかえて貰う時の喜びをひとりでに思い出して、明るい気分になるのである。
その繃帯も、しかし、十日ほどで必要がなくなった。春子は、その日|絆創膏《ばんそうこう》を貼りながら、いかにも嬉しそうに言った。
「やっと、さばさばしたわね。暑苦しかったでしょう。……もうこれからあんな馬鹿な真似はしないことよ。」
しかし、次郎は、たった一つの楽しみをもぎ取られたような気がして、変に淋しかった。
「姉ちゃん。」
と、はたで付替《つけかえ》を見ていた竜一が言った。
「学校では、みんなが次郎ちゃんを怖がるんだよ。僕、次郎ちゃんと仲がいいもんだから、僕まで威張れらあ。」
「まあ、いやな竜ちゃん。」
春子は吹き出しそうな顔をして、そう言ったが、急に真面目になって、
「次郎ちゃんは、お友達に怖がられるのがお好き?」
次郎は、春子に真正面からそう問われて、うろたえた。そして、つまらないことを言い出した竜一を、心のうちで怨《うら》んだ。
「竜ちゃん、嘘言ってらあ、誰も怖がってなんか、いやしないじゃないか。」
彼はむきになって打消しにかかった。
「嘘なもんか。ほら、昨日だって、次郎ちゃんが行くと、みんな鬼ごっこをやめて、逃げちゃったじゃないか。」
「いけないわ、そんなじゃあ。」
と、春子は、絆創膏を貼《は》り終って、じっと次郎の顔を斜め後から見下した。
次郎は何とか弁解しようと思ったが、どう言っていいのか解らなくて、椅子にかけたままもじもじしていた。すると、いきなり春子の手が、うしろから彼の肩をつかんだ。
「次郎ちゃん、お願いだからいい子になってね。いいでしょう、ね、ね。」
春子の頬が息づまるように、次郎の頬にせまって来た。次郎は柔かな光の渦《うず》に巻きこまれるような気がして、ぼうっとなった。そして、嬉しいとも悲しいともつかぬ涙が、ぽたぽたと彼の膝に落ちた。
「乳母やさんが聞いたら、どんなに心配するが知れないわ。」
春子の声が、彼の耳許でふるえるように囁《ささや》いた。
次郎は、それを聞くと、いきなり椅子からすべって春子に抱きついた。
「僕、悪かっよ。僕……僕……」
彼は、顔を春子の胸にうずめて、泣き声をおさえた。春子は次郎の頭をなでながら、
「そう? 解ってくれて? じゃもういいわ。」
「なあんだ、つまんないなあ。姉ちゃん生意気だい、次郎ちゃんを叱ったりするんだもの。」
と、竜一は口を尖らしながら、それでも何だか訳がわからなそうな顔をして、立っていた。
「そうね、ほんとに悪かったわね。……じゃ、二人でお二階へ行ってらっしゃい。いいものあげるから。」
竜一はすぐ次郎の手を引っぱった。次郎は一方の手で涙を押さえながら、まるで、ずっと年上の人にでも手を引かれているかのように、竜一のあとについて、二階に行った。
*
傷が治ってからも、彼は毎日のように竜一の家に遊びに行った。
そのうちに、次郎は竜一にならって、春子を「姉ちゃん」と呼ぶようになってしまった。最初にそう呼ぶ機会を捉えるためには、次郎は一方ならぬ苦心をした。三人で何か取り合いっこをして、大はしゃぎにはしゃいでいる最中、竜一が、
「姉ちゃん、いけないや。」
と言ったのを、そのまま自分も真似てみたのが始まりだった。真似てみて、次郎は顔を真赧《まっか》にした。しかし、春子も竜一も、まるで気がつかなかったふうだったので、彼は勇気を得、それから盛んに、「姉ちゃん」を連発した。そして、その日は、とうとう二人にそれを気づかれずにすんでしまった。
「あら、いつから次郎ちゃんは、あたしを姉ちゃんって呼ぶようになったの。」
そう言って、春子が不思議がったのは、それから随分たってからのことであった。
二六 没落
「貴方、どうなさるおつもり? 恭一も、折角ああして中学校にはいる準備をしていますのに。」
「中学校ぐらい、どうにかなるさ。」
「どうにかなるとおっしゃったって、四里もある道を通学させるわけにはいきませんわ。どうせ寄宿舎とか下宿とかいうことになるんでしょう?」
「そりゃ、そうさ。」
「そうなれば、今のままでは、とてもやっていけませんわ。いよいよ土地が売れたら、小作米だって、ぐっと減《へ》るでしょう?」
「減るどころじゃない。全くなくなるさ。」
「全く? じゃ残らず売っておしまいになりますの?」
「五段や六段残したって仕様がないし、先方でも、出来るだけまとまった方がいいって言うからね。」
「まあ! それでは仏様に対して申訳ありませんわ。」
「そりゃおれも申訳ないと思ってる。しかし、こうなれば仕方がないさ。」
「仕方がないではすみませんわ。……あたし、正木の父に相談してみましょうかしら。」
「長鹿言え。……おれの不始末は、おれが何とかする。」
「だって、一粒の飯米もはいらなくて、これからどうなさるおつもりですの。」
「食うだけは、おれの俸給で、当分何とかなるだろう。」
「俸給ですって! これまでろくに見せても下さらなかったくせに。」
「これからは、みんなお前に渡すよ。」
「みんなって、いかほどですの。」
「お前、主人の俸給も知らないのか。」
「そりゃ存じませんわ。これまで何度おたずねしても、俸給なんかどうでもいいじゃないかって、いつも相手にしてくださらなかったんですもの。」
「そうだったかな。しかし、これからは、大いに俸給を当てにしてもらうことにするよ。」
「すると、いかほどですの?」
「大たい、米代ぐらいはあるだろう。」
「はっきりおっしゃって下すっても、いいじゃありませんか。あたし、これからの心組もあるんですから。」
「そう心組にするほどのものではないよ。……そのうち俸給袋を見ればわかる。」
「まあ! 心細いこと。とにかく、恭一の学費までは出ませんわね。」
「そりゃ無論出ない。しかし土地を全部売ると、いくらか浮きが出るはずだから、当分のところ何とかなるだろう。」
「そのあとは、どうなさるおつもり?」
「町に出て、小店でも出そうかと思っている。」
「えっ?」
「何だ、変な顔をするじゃないか。」
「だって……だって……あたしには、とてもそんなこと出来ませんわ。それに、正木の父が聞いたら、何と思うでしょう。」
「仕方がないと思うだろう。」
「貴方!」
「なんだ。」
「子供たちの行末も、ちっとはお考え下さいまし、後生ですから。」
「考えているから、商売でもやろうと言ってるんじゃないか。」
「商売なんて、そんな……」
「商売が子供たちのためにならない、とでも言うのかい。」
「知れてるじゃありませんか。……子供たちは、石に噛りついても、学問で身を立てさせたいと思っていますのに。」
「だから、商売で儲けて、大学へでも何処へでも、はいれるようにしたらいいじゃないか。」
「人間は、卑しくなってしまっては、学問も何もあったものではありませんわ。」
「なあるほど、お前はそんなふうに考えていたのか。……だが、もうそんな時代おくれの考え方はよした方がいいぜ。これからの世のなかは、まかり間違えば、子供を丁稚奉公《でっちぼうこう》にでも出すぐらいの考えでいなくちゃあ……」
「まあ情けない!」
「大学を出たって、丁稚奉公をしないとは限らないんだ。」
「まさか、そんなことが……」
「あるとも、だが、今のお前の頭じゃ、何を言ったって解るまい。」
「…………」お民は横を向いた。
「怒るのはよせ。大事な場合だ。……とにかく、商売でもやるより仕方がなくなったんだから、その覚悟でいてくれ。」
「…………」
「不賛成か。困ったな。……だが、実をいうと、もう何もかも、そのつもりで運んでいるんだがな。」
「すると、この家も引払って、町に引越すんですか。」
「そうだ。い
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