とである。
 ふと、小屋の戸口にことことと音がした。彼は、またかと思って見向きもしなかった。誰も這入って来ない。しばらくたつと、また同じような音がする。何だか子供の足音らしい。彼は不思議に思って、その方に眼をやった。すると半ば開いた戸口に、俊三が立っている。
(畜生!)
 彼は、思わず心の中で叫んで、唇をかんだ。
 しかし何だか俊三の様子が変である。右手の食指《しょくし》を口に突っこみ、ややうつ向き加減に戸によりかかって、体をゆすぶっている。ふだん次郎の眼に映《うつ》る俊三とはまるでちがう。
 次郎は一心に彼を見つめた。俊三は上眼をつかって、おりおり盗むように次郎を見たが、二人の視線が出っくわすと、彼はくるりとうしろ向きになって、戸によりかかるのだった。
 かなり永い時間がたった。
 そのうち次郎は、俊三にきけば、算盤のことがきっとはっきりするにちがいない、ひょっとすると壊したのは彼だかも知れない、と思った。
「俊ちゃん、何してる?」
 彼はやさしくたずねてみた。
「うん……」
 俊三はわけのわからぬ返事をしながら、敷居をまたいで中に這入ったが、まだ背中を戸によせかけたままで、もじもじしている。
 次郎は立ち上って、自分から俊三のそばに行った。
「算盛こわしたのは俊ちゃんじゃない?」
「…………」
 俊三はうつ向いたまま、下駄で土間の土をこすった。
「僕、誰にも言わないから、言ってよ。」
「あのね……」
「うむ。」
「僕、こわしたの。」
 次郎はしめたと思った。しかし彼は興奮しなかった。
「どうしてこわしたの?」
 彼はいやに落ちついてたずねた。そしてさっき自分が母に訊ねられた通りのことを言っているのに気がついて、変な気がした。
「転がしてたら、石の上に落っこちたの。」
「縁側から?」
「そう。」
「お祖父さんの算盤って、大きいかい?」
「ううん、このぐらい。」
 俊三は両手を七八寸の距離に拡げてみせた。次郎は、いつの間にか、俊三が憎めなくなっていた。
「俊ちゃん、もうあっちに行っといで。僕、誰にも言わないから。」
 俊三は、ほっとしたような、心配なような顔つきをして、母屋の方に去った。
 そのあと、次郎の心には、そろそろとある不思議な力が甦《よみがえ》って来た。むろん、彼に、十字架を負う心構えが出来上ったというのではない。彼はまだそれほどに俊三を愛していないし、また、愛しうる道理もなかった。俊三に対して、彼が感じたものは、ただ、かすかな燐憫《れんびん》の情に過ぎなかったのである。しかし、このかすかな憐憫の情は、これまでいつも俊三と対等の地位にいた彼を、急に一段高いところに引きあげた。それが彼の心にゆとりを与えた。同時に、彼の持ち前の皮肉な興味が、むくむくと頭をもたげた。自分でやったことをやらないと頑張って、母を手こずらせるのも面白いが、やらないことをやったと言い切って、母がどんな顔をするかを見るのも愉快だ、と彼は思った。いわば、冤罪者《えんざいしゃ》が、獄舎の中で、裁判官を冷笑しながら感ずるような冷たい喜びが、彼の心の隅で芽を出して来たのである。
 彼はもう誰も怖くはなかった。父に煙管でなぐられることを想像してみたが、それさえ大したことではないように思えた。むしろ彼は、これからの成り行きを人ごとのように眺める気にさえなった。そして、今度母に詰問された場合、筋道の通った、尤もらしい答弁をするために、彼はもう一度薪の上に腰掛けて考えはじめた。
 もうその時には日が暮れかかっていた。小屋は次第に暗くなって来た。そろそろ夕飯時である。しかし、お糸婆さんも、直吉も、それっきりやって来ない。このまま放って置かれるんではないかと思うと、さすがにいやな気がする。かといって、こちらからのこのこ出て行く気には、なおさらなれない。
(父さんはもう帰ったか知らん。帰ったとすればこの話を聞いて、どう考えているだろう。父さんまでが、もし知らん顔をして、このまま何時までも僕を放っとくとすると、――)
 次郎は、そう考えて、胸のしん[#「しん」に傍点]に冷たいものを感じた。そして、次の瞬間には、その冷たいものが、石のように凝結《ぎょうけつ》して、彼をいよいよ頑固にした。
(二日でも三日でも、僕はこうしているのだ。僕はちっとも困りゃしない。)
 しかし、それから小半時もたって、あたりが真っ暗になると、流石に彼も辛抱しきれなくなった。やはり家の様子が知りたかった。
 彼はとうとう思いきって小屋を出て、そっと茶の間の縁側にしのび寄った。茶の間には、あかあかと燈がともっていた。
「それで恭一にも、俊三にも、よくきいてみたのか。」
 父の声である。
「いいえ、べつべつにきいてみたわけではありませんけど、……」
「それがいけない。三人一緒だと、どうしたって次郎の歩が悪くなるにきまっている。」
「貴方は、まあ! みんなで次郎に罪を押しつけたとでも思ってらっしゃるの。」
「口では押しつけなくても、心で押しつけたことになる。」
「では私、もう何も申上げませんわ。どうせ私には、次郎を育てる力なんかありませんから。」
「そう怒ってしまっては、話が出来ん。」
「怒りたくもなろうじゃありませんか。次郎が正直に白状したのまで、私が押しつけてさせたようにお取りですもの。」
「次郎は、しかし、すぐそれを取消したんだろう?」
「それがあれの手に負えないところなんですよ。」
「しかし、それがあれの正直なところなのかも知れない。」
「貴方、本気で言ってらっしゃるの。」
「本気さ。あれは強情な代りに、一旦白状したら、めったにそれを取消すようなことはしない子だ。それを取消したところをみると、取消しの方が本当かも知れない。」
「おやおや、貴方は、あの子を人の罪まで被るような、そんな偉い子だと思ってらっしゃるの。」
「実は、その点が俺に少し解《げ》しかねるところなんだ。」
「それご覧なさい。」
「一たいどんな機《はず》みで、白状したんだい?」
「それは、私、ワシントンの話を持ち出しましたの。」
「うむ。」
「そしたら急にそわそわし出したものですから、そこをうまく畳みかけてきいてみたんですの。」
 お民は、少しうわずった調子で、得意そうに言った。
「なるほど。……うむ。……」
 俊亮はしきりに考えているらしかった。しばらく沈默がつづいたあとで、お民が言った。
「ですから、本気で教えてやりさえすれば、いくらかは違ってくると思いますけれど……」
「そうかね。……それで、あいつまだ小屋の中にいるのかい。」
「ええ、いるだろうと思いますけれど……」
「とにかくおれが行ってみる。」
 俊亮の影法師《かけぼうし》が動いた。
 次郎は、父に後《おく》れないように、急いで薪小屋にもどって、じっと息をこらしていた。
「次郎、馬鹿な真似はよせ。」
 俊亮は小屋に這入ると、いきなり提灯を彼の前にさしつけて、そう言ったが、その声は叱っているようには思えなかった。
「算盤のこわれたのは、どうだっていい。お祖父さんには父さんからあやまっとくから。……だが、こわしたと言ったり、こわさないと言ったりするのは卑怯だぞ。」
 次郎は、父に卑怯だと思われたくなかった。卑怯だと思われないためには、やはり罪を被る方がいいと思った。
「僕、こわしたんだい。」
 彼は、はっきりそう答えて、父の顔色をうかがった。
 すると、俊亮は、提灯の灯に照らされた次郎の顔を、穴のあくほど見つめながら、
「父さんに嘘は言わないだろうな。」
 次郎は何だか気味悪くなった。
「父さんは嘘をつく子は嫌いだ。……だが、まあいい、父さんはお前の言うことを信用しよう。しかし、飯も食わないで、こんな所にかくれているのは、よくないぞ。さあ父さんと一緒に、あちらに行くんだ。」
 次郎は、そう言われると急に涙がこみあげて来た。
「馬鹿! 今頃になって泣く奴があるか。」
 次郎は、しかし、泣きやまなかった。俊亮は永いこと默ってそれを見つめていた。

    一八 菓子折

 算盤事件は、とうとう誰にも本当のことが解らずじまいになった。
 俊亮とお民とは、それについて、まるで正反対の推測をして、次郎の子供らしくないのに心を痛めた。
 次郎と俊三とは、その後、口にこそ出さなかったが、顔を見合わせさえすれば、すぐ算盤のことを思い浮かべるのだった。次郎の立場は、むろんそのためにいつも有利になった。
 次郎は、いつかは思い切り戦ってみようと思っていた恭一と俊三とが、妙なはずみから、まるで敵手でなくなってしまったので、いささか拍子ぬけの気持だった。しかし彼は、決してそれを残念だとは思わなかった。それどころか、二人を相手に、いくらかでも仲よく遊べることは、彼の家庭における生活を、今までよりもずっと楽しいものにした。
 恭一は、雑誌や、お伽噺《とぎばなし》の本などをお祖母さんに買って貰って、それを読むのが好きであったが、自分の読みふるしたものを、ちょいちょい次郎に与えた。それが次郎を喜ばしたのはいうまでもない。
 彼ははじめのうちは、挿画《さしえ》だけにしか興味を持たなかったが、次第に中味にも親しむようになり、時には、恭一と二人で寝ころびながら、お互に自分の読んだものを話しあうようなことがあった。その間に彼は、恭一のこまかな気分にふれて、いろいろのいい影響をうけた。
 彼と俊三との間は、それほどにしんみりしたものにはなれなかったが、庭や畑に出ると、二人はいつも仲よく遊んだ。俊三が、このごろ次郎に対して、ほとんど我儘を言わなくなったことが、いつも次郎を満足させた。そして、彼が外を飛び歩くことも、そのためにいくぶん少なくなって来た。
 お民は、次郎のそうした変化を、内心喜んだ。彼女は、自分の教育の力が、やっとこのごろ次郎にも及んで来たのだと思ったのである。そこで、彼女は、この機を逸してはならないと考えて、何かと次郎に接近しようと努めた。これは次郎にとってはまことにうるさいことであった。しかし、この頃では、以前ほど叱言《こごと》も言わないし、時としては、思いがけない賞め言葉を頂戴したりするので、次郎の母に対する感じも、いくらかずつ変って来た。
 ただ祖母に対してだけは、次郎は微塵《みじん》も好感が持てなかった。彼女は、お民とちがって、よく食物で次郎をいじめた。お民は、その点では、三人に対してつとめて公平を保とうとした。少なくとも、三人をならべておいて、あからさまに差別待遇をするようなことは決してなかった。ところが祖母は、そんなことは一向平気で、お民の留守のおりなどには、食卓の上で、わざとのように差別待遇をした。
「次郎、お前、どうしてお副菜《かず》を食べないのかい。」
「食べたくないよ。」
 次郎は決して、自分の皿の肴が、兄弟の誰のよりも小さいからだ、とは言わない。
「可笑《おか》しいね。ご飯はそんなに食べてるくせに。」
 そう言われると、次郎は、それっきりご飯のお代りもしなくなる。
「おや、ご飯も、もうよしたのかい。」
「今日は、あんまり食べたくないよ。」
「お腹でも悪いのかい。」
「…………」
 次郎はちょっと返事に窮する。
「また、何かお気に障ったんだね。」
「そんなことないよ。」
 しかし、そっぽを向いた彼の顔付が、あきらかに彼の言葉を裏切っている。同時に、ちゃぶ台のまわりの沢山の眼が、皮肉に彼の横顔をのぞきこむ。
 こうなると、彼は決然として室を出て行くより、仕方がないのである。
「おや、おや。」
 と、うしろでは嘲るような声。つづいて、
「まあ、どこまでねじけたというんだろうね。」
 と、変な溜息まじりの声。
「放っときよ。ねじけるだけ、ねじけさしておくより仕方がないさ。」
 と、いかにも毒々しい声がきこえる。
 先ず、こういった調子である。
 また、兄弟三人が、珍しく仲よく遊んでいるのに、お祖母さんは、わざわざ恭一と俊三の二人だけを離室に呼んで、いろんな食物を与えたりすることもある。
 そんな時の次郎は、実際みじめだった。彼は、しかし、食べ物を欲しがっていると祖母に思われたく
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