なかった。また、一人だけのけ者にされているのを気にしている、と思われるのも癪だった。で、彼は、つとめて平気を装《よそ》おうとして、非常に苦しんだ。それは、彼が負けぎらいな性質であるだけに、一層不愉快なことだった。いつも辛うじて自制はするものの、彼の腹の中では、真っ黒な炎がそのたびごとに濃くなって、いつ爆発するかわからなくなって来た。――およそ世の中のことは、慣れると大てい平気になるものだが、差別待遇だけは、そう簡単には片づかない。人間は、それに慣れれば慣れるほど、表面がますます冷たくなり、そして内部がそれに比例して熱くなるものである。
 ある日、次郎は、お祖母さんが小さな菓子折を持って離室に這入って行くのを見た。何処かの法事にでも行って来たらしく、紋付の羽織を引っかけていた。
 次郎は、今日もまた、恭一と俊三だけがそれを貰うのだと思うと、我慢が出来なくなった。で、お祖母さんの隙を見て、これまでめったに這入ったことのない離室に、こっそりしのびこんだ。
 菓子折は違棚の上にお祖父さんの算盤と並べてのせてあった。彼は、それをつかむと、いそいで裏の畑に出た。そこで彼は、紐を解いて中身を覗いてみたい衝動に駆られたが、すぐ思いかえして、それを放りなげ、下駄で散々にふみつけた。折箱の隅からは桃色の羊羹がぬるぬるとはみ出した。彼はお祖母さんの頭でもふみつけるような気がして、胸がすうっとなった。
 間もなくお祖母さんが騒ぎ出した。むろん、みんなもそれにつづいて騒いだ。「次郎!」「次郎!」と呼ぶ声が、あちらからも、こちらからも聞えた。しかし、次郎はもうその時には風呂小屋のそばの大きな銀杏《いちょう》の樹の上に登って、そこから下を見おろしていた。
 直吉の頓狂な叫び声で、みんなが畑に出て来た。ふみにじられた折箱を囲んで、さまざまの言葉が入り乱れた。
「まあ、何ということでしょう。」
 お民が青い顔をして言った。俊亮はみんなのうしろに立って、腕組をして考えこんでいた。
「あれ、あれ、勿体《もったい》もない。」
 お糸婆さんは、いかにも勿体なさそうに、そう言って、ぺちゃんこになった折箱を拾いあげた。しかし、どうにも始末に終えないとみて、お祖母さんの顔を窺《うかが》いながら、すぐまた地べたに放りなげた。
 みんなはあきらめて、ぞろぞろと母屋の方に帰りかけた。
「おやっ。」とお祖母さんが銀杏の根元に眼をやりながら叫んだ。次郎の下駄をそこに見つけたのである。次郎はしまったと思った。
「直吉、竹竿を持っておいで。」
 お祖母さんは、次郎を見上げて物凄い顔をした。さすがに次郎もうろたえた。彼は大急ぎで木から滑り降りて、庭の方に逃げ出した。
「直吉、表の方からまわって、次郎をつかまえておくれ、俊亮も、今度こそはしっかりしておくれよ。」
 そう言って、お祖母さんは自分で次郎のあとを追いかけた。次郎はすばしこく植込をぬけ、座敷の縁を上って、家の中に逃げこんだ。座敷と茶の間との間は仏間になっている。そこは、お燈明がともっていないと、昼間でも真っ暗である。次郎は、そこに飛びこむと、平蜘蛛《ひらぐも》のように畳に体を伏せて息を殺した。
 抹香《まっこう》くさい空気が、しめっぽく彼の鼻を出はいりする。
「どこに失せおった。」
 お祖母さんは、はあはあ息をしながら仏間へ這入って来たが、すぐ、
「なむあみだぶ、なむあみだぶ。」
 と、念仏をとなえた。
 次郎は、なるだけ体を小さくするために、足を引っこめたが、それがついお祖母さんの足に引っかかった。お祖母さんは、枯木のように畳の上に倒れた。
「誰か来ておくれ!」
 お祖母さんは、今にも息の切れそうな声で叫んだ。次郎は、その間にはね起きて、毬のように座敷をぬけると、再び庭に飛び出した。
 しかし、そこには、俊亮が默然《もくねん》と腕組をして立っていた。次郎は、彼と眼を見あわせた瞬間に、急に身動きが出来なくなってしまった。
「次郎、父さんについて来い。」
 次郎は、おずおずと父のあとに従った。間もなく、二人は二階の暗い一室に向かいあって坐っていた。
 俊亮は、しかし、坐っているだけで一言も言葉を発しなかった。次郎は、はじめのうちは、もじもじと膝をを動かしていたが、とうとうたまらなくなって泣き出した。すると俊亮もそっと自分の眼をこすった。
 小一時間もたったあと、二人は二階から降りて来たが、俊亮の恐ろしく緊張した顔を見ると、お祖母さんもお民も、お互に顔を見合わせただけで、何も言わなかった。

    一九 校舎移転

 学校の校舎が古くて危険だという話は、町の人達の間に、大分前から話しあっていたが、やっとこの頃になって新築工事が始まった。場所は現在の校舎から三四丁も離れた川端であった。川には欄干《らんかん》のついた大きな板橋がかかっており、そのむこうにはこんもりと繁った杉林があった。その杉林を背景にして、新しい柱が、何本も何本も、真っ白に光って立ち並んでいくのを、子供たちは、毎日教室の窓から眺めて、胸を躍らせた。
「今度の学校はすばらしい。」
 休み時間になると、誰言うとなく、そんなことを言い出して、彼らはお互に感激にひたるのだった。
 次郎は、授業が終ると、きっと四五人の仲間と大工小屋にやって来て、仕事の運びを眺めたり木屑を玩具《おもちゃ》にして遊んだりした。彼は自分たちの教室のことよりも、お浜たちの部屋がどの辺になるだろうかと、いつもそれを注意していた。そして何度も大工たちにそれをきいてみるのだったが、誰もろくに返事をしてくれる者がなかった。
 いよいよ落成したのは、その年の暮近くだった。次郎は、部屋という部屋を一わたり歩いてみたが、どの部屋もがらんとしていて、校番室がどれだか、まるで見当がつかなかった。土間につづいた三畳敷の部屋が、それだろうとも思ったが、それにしては少し狭《せま》すぎた。その次に、もう一つかなりの広い畳敷があった。しかしそれは三畳敷とは壁で仕切ってあり、それに床の間がついていたりして、お浜たちの部屋にしては、少し立派すぎるように思えた。
 明日から冬休みが始まるという日に、三年以上の児童たちは、みんな居残って、旧校舎の道具を、新校舎に運びこむことになった。それは児童たちにとっては、このごろにない愉快な作業だった。霜どけの田圃《たんぼ》道を、黒板や、腰掛や、掃除道具などの行列が、かまびすしい話し声と共につづいていた。
 次郎は、腰掛を一つと箒を一本だけ運んでしまったらすぐかえってもいい、と先生に言われていた。しかし、彼は、それだけでは何だか物足りなく感じた。六年生などと一緒に、黒板か何か大きいものを担《かつ》いで、もっとはしゃいでみたい気がした。で、彼は、自分の受持をすましたら、校番室の道具でもいくらか手伝ってやろうと考えていた。
 しかし、彼が新校舎から引返して来て校番室に這入ってみると、そこはもうがらんとしていて箒一本残っていなかった。そして、お浜かたった一人、気ぬけがしたように上り框に腰をかけて、自分の膝の上に頬杖をついていた。彼女は次郎の這入って来るのをぼんやり見ていたが、
「次郎ちゃん、もうおすみ?」
 と、力のない声で言った。
「ああ、すんだよ。これから乳母やのとこのを運ぶんだい。」
 次郎は、そう言いながら、あらためて部屋を見まわした。
「そう? でも、もう何もありませんのよ、ほら。」
 お浜は相変らず頬杖をついたまま、ほんの僅かだけ首を動かして、あたりを見た。
「早いなあ、乳母やは。」
「早いでしょう。」
「今日運んだんかい。」
「いいえ、もう昨日から。」
「昨日からなら、早いの当りまえだい。」
「そうね。」
「今度の学校、いいなあ。」
「ええ。いいわね。」
「乳母やの部屋はどこだい。僕探したんだけれど、わかんなかったよ。」
「そう? 探して下すって? でも、乳母やのいる部屋は、もうありませんのよ。」
「ない? 嘘言ってらあ。」
「本当よ。……あのねえ、次郎ちゃん、あたしたちは、もう学校の校番ではありませんの。」
「嘘だい。」
「嘘じゃありませんの。」
「だって、校番がいなくてもいいのかい。」
「これからは、小使さんだけになるんですって。」
「小使さんだけ? じゃ乳母やがそれをやるんかい。」
「いいえ、小使さんは女ではいけないんですって。」
「可笑しいなあ。じゃ爺さんがなったらいい。」
「爺さんも老人だから、やっぱりいけないんですって。」
「馬鹿にしてらあ。じゃ誰がなるの。」
「今日あちらに誰かいたでしょう。次郎ちゃん、逢わなくって?」
 次郎は、さっき新校舎の廊下を、忙しそうに走りまわっていた背の低い、小倉服を着た四十恰好の男を思いだして、あれが小使だなと思った。同時に、今まで楽しみにしていた新校舎が、急に呪《のろ》わしいもののように思われ出した。
 彼は、もう一度、古い部屋の壁や天井を見まわした。長押《なげし》の下の壁の上塗《うわぬり》が以前から一ところ落ちていて、ちょうど俯伏《うつぶせ》になった人間の顔の恰好をしていたのが、今日はいつもより大きく見える。鼠が騒ぐたびに、よく竹の棒を突き刺していた天井の節穴からは、煤《すす》ぼけた蜘蛛の巣が下っている。彼は、そうしたものを見ているうちに、以前ここに寝泊りしていた頃のいろいろの記憶を呼びもどして、甘えたいような、淋しいような、変な気持になっていた。
 教室の方からは、先生や上級の児童たちが、大声で叫びかわしながら、がたぴしと物を動かしている音が、ひっきりなしに聞えて来る。
「爺さんはどこにいる?」
 次郎はお浜に寄りそって、腰を掛けながら訊ねた。
「もういませんわ。昨日皆で行ってしまったの。」
 次郎は、この二三日、お鶴が学校を休んでいたことを思い出した。
「どこへ行ったんだい。」
「遠いところ、……石炭を掘る山なの。……次郎ちゃんはそんなとこ行ったことないでしょう。」
「乳母やもそこに行くの?」
「ええ。……でも、……でも、ねえ次郎ちゃん、……」
 お浜は急に鼻をつまらした。
「乳母やは行かなくてもいいんだい。……僕んちに来ればいいんだい。……僕、父さんに……」
 次郎はそう言いかけて息ずすりした。
「次郎ちゃんは、そんなこと出来ると考えて? お母さんやお祖母さんが、きっといけないっておっしゃるわ。」
「…………」
「それに、ほら、こないだも次郎ちゃんは、お祖母さんに大変なことをなすったっていうじゃありませんか。」
「…………」
「ですから、そんなことお父さんにお願いしても、駄目ですわ。……それに次郎ちゃんは、もう乳母やなんかいなくても大丈夫でしょう。」
「だって、僕……」
「いけませんわ、そんな弱虫じゃあ。」
 お浜は急にいつものきつい声になって、おさえつけるように言った。
「違うよ。僕弱虫なんかじゃないよ。」
 次郎は弱虫と言われて興奮した。彼は、このごろ恭一や俊三に決して負けてなんかいないということを、お浜に話したかったが、どんなふうに話していいか、わからなかった。
「そう、弱虫なんかじゃありませんわね。ですから、乳母やも安心していますの。……でも、お祖母さんに乱暴なさるのはおよしなさいね。お父さんに怒られるといけませんから。」
「だって僕、お祖母さんは大嫌いだい。」
「でも、お祖母さんですもの、仕方がありませんわ。こないだのようなことをなさると、お父さんだって、默っちゃいらっしゃらないでしょう。」
「ううん? 父さん何も言わなかったよ。」
「そう? お母さんは?」
「母さんも、何も言わなかったよ。」
「ほんと?」
 お浜は不思議そうに訊ねた。
「ほんとうさ。このごろ母さんは、僕をあまりいじめなくなったんだい。」
「そう? それは次郎ちゃんがお利口におなりだからでしょう。」
 次郎はきまり悪そうな顔をしながら、
「こないだ絵本を買ってくれたよ。」
 お浜は、つい十日ばかり前に、正木のお祖母さんに、「お民もこのごろ少し考えが変って来たようだから、安心おし。」と言われたことを思いあわせて、いくらか明るい気持になった。
 そして
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