れたりすると、つい顔を赧《あか》らめて、うつむいたりすることもあった。
 彼は、恭一がいじめられているわけが、すぐ解った。そして、真智子の前で恥をかいている恭一の顔を、じっと見つめていたいような衝動《しょうどう》にかられた。しかし、いじめている二人に対しては、決して好感が持てなかった。ことに、真智子のしょんぼりした姿が、どうしても彼を落ちつかせなかった。彼は次第に何とかしなければならないような気がしだして来た。
 ここでも若い地鶏が彼の眼の前にちらついた。彼は、やにわに橋の上に走って行って、恭一の前に立っている子供を押しのけながら言った。
「恭ちゃん帰ろう。」
 押しのけられた子供は、しかし、振り向くと同時に、思うさま次郎の頬っぺたを撲りつけた。
 次郎は一寸たじろいた。が、次の瞬間には、彼はもう相手の腰にしがみついた。
 横綱と褌《ふんどし》かつぎの角力が狭い橋の上ではじまった。
「ほうりこめ! ほうりこめ!」
 恭一のうしろにいた子供が叫んだ。しかし次郎は、どんなに振りまわされても、相手の帯を握った手を放そうとしなかった。
 とうとう二人がかりで、次郎をおさえにかかった。次郎は、乾いた土のうえに、仰向けに倒された。土埃で白ちゃけた頭が、橋の縁《ふち》から突き出している。一間下は、うすみどりの水草を浮かした濠《ほり》である。しかし次郎は、その間にも、相手の着物の裾を握ることを忘れていなかった。二人は少しもてあました。そして次郎の指を、一本一本こじ起こしにかかった。
 と、次郎は、やにわに両足で土を蹴って、自分の上半身を、わざと橋の縁からつき出した。
 重心は失われた。次郎の体は、さかさに落ちて行った。着物の裾を握られた二人が、そのあとにつづいた。水草と菱《ひし》の新芽とが、散々にみだれて、しぶきをあげ、渦を巻いた。
 橋の上では恭一と真智子と次郎の仲間たちとが、一列に並んで、青い顔をして下をのぞいた。
 三人共すぐ浮き上った。最初に岸にはい上ったのは次郎であった。着物の裾がぴったりと足に巻きついて、雫《しずく》を垂らしている。彼は、顔にくっついた水草を払いのけながら、あとからはい上って来る二人を、用心深く立って見ていた。
 すぶ濡れになった三人は、芦の若芽の中で、しばらく睨《にら》みあっていたが、もうどちらも手を出そうとはしなかった。
「覚えてろ。」
 相手の一人がそう言って土堤《どて》を上った。もう一人は默ってそのあとに蹤《つ》いた。次郎は二人を見送ったあとで、裸になって一人で着物を搾《しぼ》りはじめた。
「みんなで搾ろうや。」
 仲間たちがぞろぞろと岸に下りて来た。恭一と真智子は、しょんぼりと道に立っていた。
 次郎は、搾った着物を帯でくくって肩にかつぐと、裸のまま、みんなの先頭に立って、軍歌をうたいながらかえって行った。
 彼は、真智子もこの一隊の後尾に加わっているのを知って、たまらなく愉快だった。恭一と喧嘩をしてみようなどという気は、その時には、彼の心のどの隅にも残っていなかった。
 恭一は、もう彼の相手ではないような気がしていたのである。

     *

 その晩は、真智子の母が訪ねて来て、みんなと晩《おそ》くまで話しこんだ。真智子も無論一緒について来ていた。話は今日の出来事で持ちきりだった。真智子の母は、何度も次郎の頭をなでては、彼の勇気をほめそやした。次郎はぼうっとなってしまった。
 お糸婆さんは、
「お体は小さいけれど、胆《きも》っ玉の大きいところは、お父さんにそっくりです。」と言った。
 次郎は体の小さいことなんか言わなくてもすむことだと思った。しかし、いつものようには腹が立たなかった。お民は、
「この子の乱暴にも困りますわ。」と言った。
 しかし、喜太郎の膝に噛りついた時とは、母の様子がまるでちがっていることは、次郎にもよくわかった。
 ただ彼が物足りなく思ったのは、一座の中に父がいなかったことと、真智子が相変らず恭一にばかり親しんでいることであった。

    一七 そろばん

「人間というものはね、嘘をつくのが一番いけないことです。嘘をつくのは泥棒をするのとおんなじですよ。ですから、知っているなら知っていると、誰からでも早くおっしゃい。ぐずぐずしてはいけません。早く言いさえすれば、きっとお祖父さんも許して下さるでしょう。」
 お民は、子供たち三人を行儀よく前に坐らして、まるで裁判官のような厳粛さをもって、取調べを開始した。言葉つきまでが、今日はいやに丁寧である。次郎はばかばかしくって仕方がなかった。
 本田のお祖父さんは、昔、お城の勘定方《かんじょうがた》に勤めていただけあって、算盤《そろばん》が大得意である。今もその当時使った象牙《ぞうげ》の玉の算盤を、離室の違棚《ちがいだな》に置いて、おりおりそれを取り出しては、必要もないのにぱちぱちとやり出す。離室に刀掛も飾ってあったが、お祖父さんにとっては刀よりも算盤の方に思い出が多かったし、自然その方に親しみもあった。かといって、お祖父さんに商人らしいところがあるのかというと、そうではない。人柄はあくまでも士族なのである。若い頃は、恐らく、物静かな、事務に堪能《たんのう》な、上役にとって何かと重宝《ちょうほう》がられた侍の一人であったろう、と思われる。
 ところで、このお祖父さんの算盤に対する愛着は、年をとるにつれて、だんだんと神経的になっていった。算盤を弾《はじ》き終ると、右の手のひらでジャッジャッと玉を左右に撫でてから、大事に蓋《ふた》をかぶせ、それをそうっと違棚にのせる習慣であった。そして、もしその算盤が自分の置いた位置から少しでも動いていると、誰かがきっと叱られなければならなかった。お祖父さんに言わせると、蓋をとって、玉の様子を見れば、人が触《さわ》ったかどうかがすぐわかる、と言うのである。
 この大事な算盤の桁《けた》が、いつの間にか一本折れていた。これはまさしく本田一家にとっての大事件でなければならない。お民が厳粛になるのも無理はなかったのである。
 しかし、次郎にとっては、これほどばかばかしいことはなかった。第一、彼は、このごろ離室なんか覗いたこともないし、また覗こうと思ったことすらない。
(それに、算盤が一体何だ。そんなものに触ってみたところで、面白くも何ともありゃしないじゃないか。)
 そう考えると、彼は真面目に母の前にかしこまっているのでさえ無駄なような気がして、一刻も早く仲間のところへ飛び出して行きたかった。
「お祖父さんは、お前たち三人のうちにちがいない、とおっしゃるんですよ。私もそう思います。放りなげでもしなければ、あんなになるわけがないのだからね。」
 そう言って、お民はじろりと次郎を見た。
 次郎は平気だった。しかし、もうその時には随分退屈しているところだったので、眼を天井にそらしたり、膝をもじもじさせたりして落ちつかなかった。
 お民はむろん次郎のそうした様子を見のがさなかった。
「次郎、お前、知ってるでしょう。」
 次郎はにやにやして母の顔を見た。
「ね、そうでしょう。」
 お民はいやにやさしい声をして、たたみかけた。
「僕、お祖父さんの算盤なんか見たこともないや。」
 と、次郎は、わざとらしく天井を見ながら答えた。
「見たこともない? お祖父さんのあの算盤を? おとぼけでないよ。」
「ほんとうだい。」
 次郎は少し躍起《やっき》となった。
「そんなはずはありません。お前、そんな嘘をつくところをみると……」
 お民は言いかけてちょっと躊躇した。次郎が恭一のカバンを便所に放りこんだ時のことを考えると、高飛車に出ても駄目だと思ったからである。
 しばらく沈默がつづいた。次郎は、つぎの言葉を催促するかのように、皮肉な眼をして母の顔を見まもっていた。
 お民は大きく溜息をついた。そしてしばらくなにか考えていたが、
「母さんがいいお話をしてあげるから、三人とも、よくお聴き、昔、アメリカというところにね……」
 と、彼女は、ワシントンが少年時代に過《あやま》って大切な木を切り倒したという物語を、出来るだけ感激的な言葉を使って、話し出した。それは恭一と次郎にとっては、もう決して新しい物語ではなかった。次郎は、話っぷりは学校の先生の方がうまいな、と思って聴いていた。
「大きくなって偉くなる人は、みんな子供の時、この通りに正直だよ。解ったかい。」
 話はそれで終った。次郎は、先生もそんなことを言ったが、たったそれっぱかしじゃなかったと思った。が、同時に、彼の頭に、ふと妙な考えが閃《ひら》めいた。
(自分でやったことをやったと言うのは、当りまえのことじゃないか。その当りまえのことがそんなに偉いなら、やらないことをやったと言ったら、どうだろう。それこそもっと偉いことになりはしないかしら。)
 次郎の心では、算盤を壊《こわ》したのは、恭一か俊三かに違いないと睨んでいた。その罪を自分で被《き》るのはばかばかしいことではある。しかし彼の胸には、こないだの橋の上での事件以来、一種の功名心が芽を出している。それに、このごろ、妙に恭一が哀れっぽく見えて、彼のためなら、罪を被てやってもいいような気もする。
(もし俊三だったら――)
 そうも考えて見た。すると、あまりいい気持はしなかった。しかし、ワシントン以上の偉い行いをしてみようという野心も、何となく捨てかねた。それに、第一、彼は、いつまでもこうして母の前に坐らされているのに、もうしびれを切らしていたのである。で、彼は、つい、
「僕、こわしたんだい。」
 と、大して緊張もせずに、言ってしまった。
「そうだろう。ちゃんとお母さんにはわかっていたんだよ。」
 お民の口調《くちょう》は案外やさしかった。
「それでどうして壊したんだね。」
 お民は取調べを進めた。次郎は、しかし、その返事にはこまった。実は、彼もそこまでは考えていなかったのである。
「早くおっしゃい。お祖父さんが怒っていらっしゃるんだよ。」
 お民の声は鋭くなった。しかし見たこともない算盤について、とっさに適当な返事を見出すことは、さすがの次郎にも出来ないことであった。
 と、いきなり次郎の頬っぺたにお民の手が飛んで来た。
「やっと正直に答えたかと思うと、まだお前はかくす気なんだね。何という煮え切らない子なんだろう。……ワシントンはね、……」
 お民は声をふるわせた。そして、両手で次郎の襟をつかんで、めちゃくちゃにゆすぶった。
 次郎はゆすぶられながら、干《ひ》からびた眼を据えて、一心にお民の顔を見つめていたが、
「ほんとうは、僕こわしたんじゃないよ。」
 それを聞くと、お民は絶望的な叫び声をあげて、急に手を放した。そしてしばらく青い顔をして大きな息をしていたが、
「もう……もう……お前だけは私の手におえません!」
 彼女の眼からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
 恭一は心配そうに母の顔を見まもった。俊三はいつもに似ずおずおずして次郎の顔ばかり見ていた。次郎はぷいと立ち上って、一人でさっさと室を出て行ってしまった。

     *

 その日は土曜で、俊亮が帰って来る日だった。お民と次郎は、めいめいに違った気持で彼の帰りを待っていた。
 次郎は薪小屋に一人ぽつねんと腰をおろして考えこんでいた。そこへ、お糸婆さんと直吉とが、代る代るやって来ては、お父さんのお帰りまでに、早く何もかも白状した方がいい、といったようなことをくどくどと説いた。もうみんなも、次郎を算盤の破壊者と決めてしまっているらしかった。
 次郎は彼らに一言も返事をしなかった。そして、父が帰って来て母から今日の話を聞いたら、きっと自分でこの小屋にやって来るに違いない。その時何と言おうか、と考えていた。
(何で俺は罪を被る気になったんだろう。)
 彼はその折の気持が、さっぱり解らはくなっていた。そして、いつもの押し強さも、皮肉な気分もすっかり抜けてしまった。彼は自分で自分を哀れっぽいもののようにすら感じた。涙がひとりでに出た。――彼がこんな弱々しい感じになったのはめずらしいこ
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