事をしなかった。彼はこれまで、学校の近くの沢で、桶につかまって泳いだ経験しかなかったのである。
「父さん、僕も行くよ。」
「僕もよ。」
 恭一と俊三とが、はたから眼を輝やかして言った。しかし俊亮は、それには取りあわないで、次郎の方ばかり見ながら、
「次郎、どうだい、いやか、いやだったら大川は止してもいい。次郎は何が一番好きかな。明日は父さんは次郎の好きな通りにするんだから、何でも言ってごらん。」
 みんなの視線が一|斉《せい》に次郎の顔に集まった。次郎はこの家に来てから、何かにつけ、みんなに見つめられるのが、何よりも嫌だったが、この時ばかりは、全く別の感じがした。彼は父に答えるまえに、先ず母と兄弟たちの顔を見まわした。そしてのびのびと育った子供ででもあるかのような自由さをもって、いかにも歎息するらしく言った。
「僕、まだ本当には泳げないんだがなあ。」
 すると、恭一が、
「大川には、浅いところもあるんだよ。僕たち、いつもそこで蜆《しじみ》をとるんだい。」
「ほんとだい。」と、俊三が膝を乗り出した。
「泳げなきゃ、父さんが泳がしてあげる。なあに、じきに覚えるよ。」
 と、俊亮がそれにつけ
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