面の敵であるお民、もう一人は、裏切者としてのお浜であった。
「裸ではしようがないわ、何か着物を着せておくれよ。」
 正面の敵が裏切者を顧みて言った。しかし、裏切者は、相変らず険しい眼付をしたまま動かなかった。
 次郎は、横目で裏切者の顔をちらとのぞいたが、その顔からは何の合図もなかった。彼は捨鉢のような気になって、急に立ち上ると、蚊帳の隅にくたくたにまるめてあった汗くさい浴衣を自分で着て、くるくると帯をしめた。
「偉いね。」
 と、正面の敵が言った。
 次郎は上り框の下にうつ伏しになって、自分の草履を探しながら、眼がしらの熱くなるのを、じっとこらえた。
 その間に、お民は提灯《ちょうちん》に火を入れた。
 二人が戸口を出る時、みんなは、芝居の幕が下りるときのように、静かであった。ただ、お作婆さんだけが、両手を腰に組んで、二人のあとを、一間ほどはなれ、校門のところまでついて来て、言った。
「坊ちゃん、さようなら。」
 次郎は、しかし、ふり向きもしなかった。彼はあふれ出る涙を歯でかみしめて、お民のあとに従った。
「怖かあないかい。」
 一丁ほど行った時に、お民が言った。その時次郎はお民の左
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