た。寝返りを打った拍子に、足が襖に当って、ぱたりと音を立てたが、それでも彼は、自分のいる場所を急には思い出せなかった。
ところで、彼が眼をさましたのは、実のところ、ぐずぐずして居れない自然の要求が、彼の下腹部にかなり鋭く迫っていたからであった。で、彼は、自分が今何処に寝ているかを、一刻も早く知る必要があった。
彼は暗闇の中で幾度も体を捻《ひね》った。それから、そっと手を伸ばしてあたりを探ってみた。すると、その手に擦《す》れて、絹夜具がばりばりと音を立てた。その瞬間、彼の記憶が、はっきりと蘇《よみがえ》って来たのである。
しかし、記憶が蘇ってからの彼は、いよいよみじめだった。出るにも出られない。かといって、下腹部の刺激は刻一刻烈しくなるばかりである。彼は、いっそ思い切って、かつて俊三の横腹に試みた経験を、もう一度繰り返してみようかと思ったりした。しかし、それには夜具が上等過ぎて都合が悪い。しかも、此処は正木のお祖父さんの家だ。そう考えると、思い切ってやってみる気にはなれない。――次郎だって、やはり人間の子である。そう何時も良心が眠ってばかりはいない。
彼は歯を食いしばり、小さな頭を火の玉のようにして、「自然の要求」と「良心の命令」との間に苦悶《くもん》した。――一分、二分。――だが、幸いにして、解決は早くついた。
(何だ、つまらない。直吉はもうとっくにかえったはずじゃないか。)
そう気がつくと、彼は急にはね起きて、襖をがらりと開けた。
ぬりつぶしたような闇だ。
彼は両手を前に伸ばして、縁側だと思う方向に、そろそろと歩きだした。寒い。そして下腹部の要求はいよいよきびしい。
と、何に躓《つまず》いたか、彼の体は急に前にのめって、闇を泳いだ。同時に彼は、物の破壊するすさまじい音を彼の耳許で聞いた。そして、茨《いばら》の中にでも突き倒されたような痛みを覚えて、思わず悲鳴をあげた。
間もなく燈火が射《さ》して来た。大勢の人声と足音とが、その光の中に渦《うず》を巻いた。
「あっ、次郎だ!」
「まあ、坊ちゃん!」
「これはいけない、早く、早く!」
「無理しちゃいかん、そっと抱えるんだ!」
「まあ!」
「まあ!」
次郎は障子の骨を二三本ぶち抜いて、頭と両手をその向側に突き出していたのである。
「眼玉を突いてはいないでしょうか。」
「大丈夫、顔の方は大したこともなさそうだ。手首の方にちょっと大きな傷があるんだが。」
「でも、硝子《ガラス》のところでなくてよかったわ。」
「ともかく、誰か早くお医者を迎えて来なさい。」
これは正木のお祖父さんの声であった。
次郎は、手首と額とに、取りあえず白木綿を捲きつけられた。
「おや着物がぐしょぐしょになっていますが、どうなすったんでしょう。」
お浜は彼を抱えて座敷の方に運びながら言った。
「そうかな、気がつかなかった。……大方倒れたはずみに発射したんだろう。」
俊亮は、何でもなさそうに言って、笑いながら、次郎を見た。みんなも笑った。次郎はまだ泣いていた。
ただお民だけが、きっとなって俊亮を睨んだ。
それから次郎は、汚れた着物を辰男のと取りかえて貰って、しずかに蒲団に寝かされた。
医者の見立てでは、手首の傷も大したことはなかった。ただ、障子の骨が突き刺さったのだから、傷あとは案外大きく残るかも知れないと言った。
医者が帰ったのは、十二時ごろだった。
俊亮は自分から泊っていくと言い出した。お浜はお民の顔色を窺っていたが、正木の老夫婦に勧《すす》められて、これも泊ることにした。本田のお祖母さんは、「次郎を預けたまま帰ってしまってはすまないが、幾人も泊りこんではなおさらすまない。」といったような意味のことを、くどくどと繰返した。で、結局お民が一緒について帰ることになった。
次郎は、傷が痛んで、よく眠れなかった。しかし、俊亮が自分と床をならべて寝ているうえに、お浜が夜どおし枕元に坐っていてくれたので、彼にとって、さほど不幸な晩であるとはいえなかった。
一三 窮鼠
年が明けた。愛されるものにも、愛されないものにも、時間だけは平等に流れてゆく。
菜種の花がちらほら咲きそめる頃には、次郎もいよいよ学校に通い出した。彼は学校に行くのが何よりの楽しみだった。で、毎朝恭一が、みんなに何かと世話を焼いてもらっている間に、さっさと一人で先に飛び出して行くのだった。
教室は男女一しょだった。次郎は、一番前列の窓ぎわに、偶然にも、お鶴と席をならべることになった。お鶴の頬には、相変らず「お玉杓子」がくっついていた。もっとも、彼はお鶴の右側にいたので、しょっちゅうそれが眼につくわけではなかった。
授業は初めのうち午前中ですんだ。授業がすむと、二人はすぐ校番室に行って、お浜がいつも用意
前へ
次へ
全83ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング