たらしく、
「そう急いで送って行くこともあるまいよ。よかったら、お浜もゆっくり泊っていったらどうだね。次郎と一緒に寝るのも久しぶりだろう。」
「でも、そんなことをいたしましたら、それこそ本田の奥様が、……」
「なあに、お民の方はこちらに任してお置きよ。今度来たら、お祖父さんからも、よく話して下さるはずだから。」
 お浜はわくわくするほど嬉しかった。彼女は、次郎の耳許に口をよせて囁くように言った。
「乳母やも泊っていきましょうね。」
 次郎は俯向いて、お椀の中に残った飯を、箸の先でいじるだけで、返事をしなかった。次郎がこんなにはにかんだ様子をするのは、全く珍しいことだった。

    一二 押入

 その夜は、次郎にとっても、お浜にとっても、まるで思いがけない一夜であった。そして翌朝になると、便所に行くにも、顔を洗うにも、二人は必ず一緒だった。お浜が土間の掃除をはじめると、次郎も何処からか箒《ほうき》を持って来て手伝った。
「まるで鶏の親子みたいだね。」とお祖母さんが笑った。
 午過ぎに、本田から歳暮のものを持って直吉がやって来た。お浜は、彼に顔を見られないうちに、そっと裏口から抜けて帰ろうと思ったが、次郎がいつも尻にくっついているので、それが出来なかった。
「おや、お浜さんも来ていたのかい。」と、直吉は台所に腰をおろして、にやりとした。
「ああ、ちょいとこちらに用があってね、でも坊ちゃんにお逢い出来るなんて、夢にも思っていなかったのよ。」と、お浜は土間に立って、次郎に袖を握られながら、言訳らしく答えた。
「今日来たのかい。」
「実は昨日来たんだけどね、皆さんで是非泊っていけっておっしゃるものだから、ついゆっくりしちゃったのさ。……でも、奥さんには内証にしておくれよ。」
「ああ、いいとも。」
 直吉の返事は、無造作過ぎて、何だか頼りなかった。
 しかしお浜は、どうせ何処からか知れるだろう、という気もしたので、それ以上たっては頼みこまなかった。
「直さんは、すぐかえるんだろう。」
「帰るとも、ゆっくりなんかしちゃ居れないや。」
「では、坊ちゃんも今日はお帰りになった方がいいんだから、一緒にお連れしておくれよ。お一人じゃ、何ぼ何でも、おかわいそうだから。」
「俺もそのつもりさ。奥さんにそう言いつかって来ているし、それにあのお祖母さんが、恐ろしくやかましいことを言ってるんでね。」
「坊ちゃんのことでかい。」
「そうだよ。歳暮《くれ》の忙しいのに、二日も三日も子供をお邪魔さして置いたんでは、先方様に、義理が立たないとか言ってね。」
「へええ、いやに義理を気にするんだね。」
「なあに、次郎ちゃんがこちらで可愛がられていると思うと、妙に妬《や》けるんだよ。」
「まさか、お祖母さんが妬くってこともあるまいけれど……」
「いいや、本当に妬けるらしいよ。正木の家では子供を甘やかし過ぎていけないって、飯どきにさえなりゃ、そればかり言っているんだからね。」
「ご自分こそ、恭ちゃんをあんなに甘やかしているくせに。」
「全くさ。それにお祖母さんは、次郎ちゃんにこちらでいろいろ喋《しゃべ》られるのが、何より恐いらしいよ。あの子は全く嘘つきだから、何を言うか知れやしないって、一人でやきもきしているんだ。」
「まあ、呆れっちまうね。……ところで旦那様は一体どうなんだい。やっぱり坊ちゃんをいびるんじゃない?」
「そんなことあるもんか、旦那に限って。」
「でも、坊ちゃんを一人でお使いによこしたのは、旦那様だっていうじゃないの。」
「それはそうらしいね。でも、いびる気なんかまるっきりないよ。第一、お祖母さんや、奥さんとは人柄がちがってらあ。」
「どうちがってるの。」
「どうって……とにかく次郎ちゃんを心から可愛いがっているんだからね。」
「ほんとうかい。」
「ほんとうだとも。そりゃ可愛いがるよ。しかし、可愛いがっても甘やかさないところが、流石は旦那さ。」
「そうだと、私も安心だけれど……」
 お浜は幾分物足りなさを感じながらも、流石に嬉しそうだった。そして、もっと直吉にいろいろ訊いてみたいこともあったので、一緒に連立って帰ることにした。
 ところで、二人が正木に挨拶をすまして、いざ帰ろうとすると、かんじんの次郎の姿が何時の間にか見えなくなっていた。
「次郎ちゃん!」
「坊ちゃん!」
 と、直吉とお浜とが、代る代る呼び立てた。その声に驚いたような顔をして、正木の子供たちが、ぞろぞろと蝋小屋から出て来たが、次郎の姿はその中にまじっていなかった。
 しばらくの間は、お浜と直吉だけが、其処此処と探しまわっていた。
 しかしいくら探しても見つからないので、捜索は次第に大袈裟になっていった。いつも子供たちが隠れん坊をして遊ぶ米倉や、櫨《はぜ》の実倉は無論のこと、納屋や、便所や、
前へ 次へ
全83ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング