「まあお偉い。」
「だって僕、ここに来たいと思ったんだもの。」
「そう? ここのおうち、そんなにお好き?」
「うちなんかより、うんと好きだい、誰も叱らないんだもの。」
「でも、辰男さんと喧嘩なさるんじゃありません?」
「ううん、角力とるんだい。恭ちゃんや俊ちゃんとは喧嘩するんだけど。」
「いつも負けやしません? 恭ちゃんや俊ちゃんに。」
「…………」
「まけるんでしょう?」
「誰も見てないとこだと、僕きっと勝つよ。」
 お浜は暗い顔をして唇を噛んだ。
「僕、乳母やの家に行っちゃいけないの? 乳母やのうち、一等好きなんだがなあ。」
 お浜は次郎の肩にかけていた手をぐっと引きしめて、ぼろぼろと涙をこぼしながら、
「駄目、今は駄目なの。……でも来年は次郎ちゃんも学校でしょう。そしたら、毎日逢えるんですよ。だから、……」
 次郎はその言葉を聞くと、突っ放すようにお浜の手を押しのけて、立ち上った。そして、探《さぐ》るような視線を彼女に投げた。彼は、ふと、毎日学校に通っている、恭一のことを思い出したのである。
 お浜は、次郎がなんでそんな真似をするのか解らなかった。で、すこし変に思いながら、手をさし伸べてもう一度彼を引きよせようとした。しかし次郎は、人に慣れない小猫のように、眼だけをお浜に据えて、じりじりとあとじさりした。
「どうなすったの、次郎ちゃん。学校がおいや?」
 お浜はそう言って立ち上ると、無理に次郎をつかまえた。そして再び蓆の上に坐って、彼を自分の膝に腰かけさせた。
「ねえ、次郎ちゃん。」
 と、次郎の耳に口をよせて、
「学校に行かないじゃ、偉くなれませんのよ。なあに、勉強だって何だって、恭ちゃんなんかに負けるもんですか。……恭ちゃんはね、そりゃ学校では泣虫なのよ。あんな泣虫、乳母やは大きらい。次郎ちゃんはきっと泣かないでしょうね。だって、学校では乳母やがついてて上げるんですもの。」
 お浜の膝の上でぐずついた次郎の尻が、それでやっと落ちついた。
 二人は、それからも永いこと炉の前を動かなかった。蒸桶から吹き出す湯気は、濃い蝋のにおいを溶《と》かしこんで、真赤にほてった二人の顔を、おりおり包んだ。
 二人は身も心もあたたかだった。
 ひる飯には、正木のお祖母さんが気をきかして、お浜を子供たちと一緒のちゃぶ台に坐らせた。お浜はみんなのお給仕をしながら、たえず次郎に気を配って、彼のこぼした御飯粒を拾ってやっては、それを自分の口に入れた。
 お副食《かず》は干鱈と昆布の煮〆だったが、お浜はそれには箸をつけないで沢庵《たくあん》ばかりかじっていた。そして、次郎の皿が大方空になったころ、そっと自分の皿を、次郎の前に押しやった。
「ううん、それは、乳母やのだい。」
 次郎はそう言って、皿を押し返した。お浜は顔を赧《あか》らめて、あたりを見まわしたが、誰もそれに気づいた様子がなかったので、ほっとした。そして今度は急いで自分の皿から、お副食を半分ほど次郎のに分けてやった。
 すると今度は次郎がまごついた。こんな特別な心づかいを平気で受けるようには、彼の心はこのごろ少しも慣らされていなかったのである。彼は盗むように、お浜と従兄弟たちの顔を見た。そしてお浜が与えたものに箸をつけるのを躊躇《ちゅうちょ》した。
「坊ちゃんは何時お帰り? 今日? 明日?」
 お浜は、みんなの気をそらすつもりで、そんなことを言ってみた。しかし、気をそらす必要のあった者は、お浜自身と次郎との外には誰もいなかった。従兄弟たちはお浜が
自分のお副食を次郎の皿にわけてやったのを見ながら、ほとんどそれを気にとめていないようなふうであった。
「僕、もっと泊っていきたいんだがなあ。」
 そう言って、次郎はきまり悪そうに、皿に箸を突っこんだ。
「お正月まで泊っておいでよ。ね、いいだろう。」と、久男が言った。――久男は、一番年上の従兄弟である。
「でも、お正月はおうちでなさるものよ。」
 と、お浜はいそいで久男の言葉を打消し、何かちょっと考えるふうであった。
「どこだって同じだい。ねえ、お祖母さん、次郎ちゃんはお正月まで泊ってもいいだろう。」
「そうねえ……」
 と、お祖母さんは、隣のちゃぶ台から、なま返事をした。
「なんでしたら、私、お暇《いとま》する時に、途中までお送りしましょうかしら。」
 お浜は箸を持った手を膝の上に置きながら、改まって言った。すると、茶の間で一人だけ別の膳についていたお祖父さんが、
「なあに、構うことはない。本田の方から誰か迎えをよこすまでは、幾晩でも泊めて置くがよい。」
 正木のお祖父さんにしては、かなり烈しい語気だった。白髯《はくぜん》の間からのぞいている頬が、いつもより赤味を帯びて光っていた。
 お祖父さんにそう言われると、お祖母さんもすぐその気になっ
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