あ、橋んとこまでなら知ってるんだけれど。」
「橋んとこまで知っているなら、あれからすぐじゃあないか。」
「すぐかなあ。」と、まだ不安らしい。
「橋を渡ったら、土堤を右に行くんだ。それから一軒家のてまえで土堤を下ると、あとは真直《まっすぐ》だ。」
「ああ、わかった。僕行こうか知らん。」
「行くか。偉い偉い。もし泊りたけりゃ泊って来てもかまわんぞ。」
次郎は立ち上って帯をしめ直すと、もう出て行きそうにした。俊亮はその様子を面白そうに眺め入って肝腎《かんじん》の用事をいいつけるのをうっかりしていた。
「次郎、お前、ほんとに大丈夫かい。」とさすがにお民も気づかわしそうだった。
「僕、平気だい。」と次郎は、すっかり得意になって、室を出かかった。
「まあ、次郎、お父さんの御用事も聞かないで行くのかい。……貴方、どうなすったの、御用事は。」
「おっと、そうだ。次郎、ちょっと待て、これを持って行くんだ。手紙が這入っているから、なんにも言わんでいい。風呂敷ごと誰かに渡すんだ。いいか。」
次郎は包みを渡されると、それを振廻すようにしてさっさと土間に下りた。お民は、やはり気がかりだったと見えて、恭一の手を引きながら、門口まで出て、何かと注意した。しかし次郎はそれにはろくに返事もしなかった。
正木の家までは、ざっと小一里もあった。
次郎が家を出たのは、二時をちょっと過ぎたばかりだったが、冬空が曇っていたせいか、すぐにも日が暮れそうで、いやに淋しかった。刈田には、まだところどころに案山子《かかし》が残っていた。その徳利で作ったのっぺらぼうの白い頭が、風にゆらめいているのも、あまりいい気持ではなかった。狐が出ると聞かされていた団栗《どんぐり》林から、だしぬけに黒犬が飛び出した時には、思わず足がすくんでしまった。
途中に部落が二つあったが、見知らぬ子供たちが、遊びをやめて、じろじろと自分を見るので、次郎はいじめられるのではないかと、びくびくした。彼にとっては、たしかに雑嚢事件以来の緊張した時間だった。やっと正木の家のすぐ手前の曲り角まで来ると、彼はほっとして、思い出したように袖口で鼻汁をこすった。そして、彼の足どりが急にゆったりとなった。
次郎は、正木の家が何とはなしに好きである。今日、たった一人でやって来る気になったのも、一つはそのためだった。
正木のお祖父さんは、維新までは、さる小大名の槍の指南をしていたそうだが、廃藩後、すぐ蝋《ろう》屋をはじめて、今ではこの近在での大旦那である。上品で、鷹揚《おうよう》で、慈悲深いので誰にも好かれている。それに、お祖母さんが信心深くて、一度も人に嫌な顔を見せたことがないというので有名である。次郎は、いつとはなしに、この二人を、自分の家の人たちとはまるでべつの世界の人間のように思いこんでいるのである。
なお、この家には、伯母夫婦――伯母はお民の姉で、それに婿《むこ》養子がしてあった――に、子供六人、それに十人内外の雇人が、いつもいた。人数が多いせいか、非常に賑やかで、食事時など、幾分混雑もしたが、かえってその中に、のんびりした自由な気分が漂っていた。子供たちにも、一体に野性を帯びた朗らかさがあって、次郎はこの家に来ると、彼らを相手に、のびのびとした遊びが出来るのであった。
(みんなで泊っていけって言うか知らん。)
そんなことを考えながら、彼は正木の門口を這入った。
土間は餅搗《もちつき》で大賑わいだった。彼は男たちや女たちの間をくぐりぬけて、やっと上り框《がまち》まで行ったが、餅搗でみんな興奮していたせいか、誰も彼が来たことに気がつかなかった。従兄弟《いとこ》たちは、お祖母さんと一緒に、板の間でやんやんとはしゃぎながら、小餅を丸めている。お祖父さんと伯母さん夫婦は、奥にでもいるのか、姿が見えない。
次郎は鮭包みを下げたまま、しばらく混雑の中にしょんぼりと立っていた。しかし、いつまで待っても、誰も言葉をかけてくれそうにない。
心に描いて来たものが、すっかりけし飛んでしまった。彼はたまらなくなって、わっと泣き出した。
「おや。」
「まあ。」
みんなが一せいに仕事をやめて、次郎の方を見た。
「次郎じゃないか。いつ来たんだね。」
と、お祖母さんが、手についた粉を払いながら、立って来た。同時に、従兄弟たちも振向いて、みんな呆れたような顔をしている。
次郎は泣きつづけた。
「まさか一人で来たんじゃあるまいね。母さんと一緒かい。」
次郎はやはり泣くだけである。
「まあどうしたんだね、この子は。……おや、包みなんか下げて……何を持って来たのかい。」
次郎は泣きながら、包みを差出した。お祖母さんはそれを受取りながら、
「泣かないで言ってごらん。一人で来たのかい……え?」
次郎はやっとうなずいたが、泣声
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