、お民は恭一をつれて何処かに出かけて行った。次郎はそれで万事けりがついたような気になって、ほっとした。同時に彼は、自分の計画が案外うまくいったのを内心得意に思った。
尤も、その得意も、ほんの当日限りのものでしかなかった。というのは、その翌日から、恭一は新しい雑嚢に新しい学用品を入れて、いつものとおり嬉しそうに学校に出て行くことになったからである。
しかも、数日の後には、次郎は、下肥《しもごえ》を汲んでいた直吉の頓狂《とんきょう》な叫び声で、大まごつきをしなければならなかった。
「あっ。あった、あった。奥さん。坊ちゃんの雑嚢がありましたよ。」
みんなは直吉の叫び声で、総立ちになって縁側に出た。
直吉は、肥柄杓《こえびしゃく》の先に、どろどろの雫《しずく》の垂れている雑嚢をぶら下げて立っていた。
次郎はそれを見ると、すばやく表の方に飛び出した。咄嗟《とっさ》の場合、さすがの彼も、そうすることが彼の罪状の自白を意味するということには、まるで気がつかなかったのである。
万事は明瞭になった。次郎は、その日じゅう何処かに身をかくしていたが、暮方になっておずおずと裏口から帰って来た。
お民や、お祖母さんが、その晩彼をどう待遇したか、また彼がどんな態度で彼らに反抗したかは、読者の想像にまかせる。ただ、この事件以来、彼がこれまでより一層大胆になり、且つ細心になったことだけは、たしかである。
一〇 お使い
大晦日に近いある日のことだった。
「でも、使に行く者がありませんわ。直吉も今日は町に買物に出ていますし。」と、お民はいかにも忙しそうに、立ったままで言った。
「お糸婆さんがいるだろう。」と、俊亮は長火鉢に頬杖をついて、お民を見上げた。
「こんな時に婆さんの手をぬかれたんでは、やり切れませんわ。どうせ正木へは、二三日中に、歳暮《せいぼ》のものを届けることにしていますから、その折、一緒でもよかありませんか。」
正木というのはお民の実家の姓である。
「だが、これは別だよ。先方からもなるだけ早く届けてもらいたいって、言って来ているんだから。」
「そう早く腐るものではないでしょう。」
「腐りはせんさ、鮭の燻製《くんせい》だもの。しかし、正木の方でも正月の御馳走の心組があるだろうし、それに、先方へ礼状を出してもらう都合もあるんだから、一日も早い方がいいよ。」
「貴方は妙なところに性急《せっかち》ね、ふだんは、のんきな癖に。」
「お前はそのあべこべかな。」
「まあ! すぐそれですもの。」
「とにかく、誰か使いに行って貰いたいと思うね。」
「誰もいませんのよ、今日は。」
お民は突っけんどんにそう言って部屋を出ようとした。俊亮は、しかし、相変らず悠然と構えて、
「恭一では駄目だろうか。もうこの位の使いは、やらしてみるのもいいんだが。」
「でも、あれは気が弱くて、まだ正木へ一人でなんか行ったことありませんわ。それに、どうせお祖母さんのお許しが出ませんよ。」
「困るなあ、いつまでもそんなに甘やかしていたんじゃ。……いっそ次郎なら行けるかも知れんね。」
「まさか、なんぼあの子が意地っ張りでも。」
「いいや、あいつなら行けるかも知れんぞ。……そうだ、あれをやろう。しかし、道を知るまいな。」
「道なら、この夏からもう五六度もつれて行きましたから、大ていは解っていると思いますわ。……でも、あんまりじゃありません。恭一と二人でなら、とにかくですけれど。」
「そうだな、二人づれだとお祖母さんにも不服はないだろう。」
「さあ、それはお訊ねしてみませんと……」
「ともかくも、二人をここに呼んでみい。駄目なら駄目でいいから。」
お民はしぶしぶ出て行った。そして間もなく二人をつれて来て、火鉢の前に坐らせた。
「恭一、お前、正木のお祖父さんとこまで、使いに行って来い。」
「…………」
恭一は、何のことだか解《げ》せないと言ったような顔をして、父を見た。
「駄目か、一人がいやなら次郎をつれて行ってもいいが……」
「…………」
恭一はやはり返事をしないで、今度は母の顔を見た。
「二人でもいやかね。正木のお祖父さんが喜ぶんだがな。」
「…………」
恭一は眼を伏せて、母によりそった。
「やっぱり駄目か。次郎、どうだい、お前は。」
次郎はそれまでに何度も恭一の顔をのぞいていたが、「行こうや、恭ちゃん。」と少しはしゃぎ加減に言った。
恭一は、横目でちょっと次郎の顔を見たきり、やはり、返事をしない。
「恭一がいやなら、次郎一人で行け。どうだい。」と、俊亮は少し笑いを含んで、そそのかすように言った。
さすがに次郎も、それにはすぐ返事が出来なかった。そして、しばらくは、わざとらしく首をひねっていたが、いかにも歎息するように、
「僕、道を間違えるといけないからな
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