た。というのは俊三以外の人間で、彼の手籠《てごめ》になる人間は一人もいなかったし、俊三にしても、うっかり手を出すと、すぐに母に言いつけられるにきまっていたからである。
 ところで、兄の恭一に対してだけは、どうしてもじっとしておれない事情があった。
 恭一は九月になるとすぐ学校に通い出した。彼はもう二年生だったのである。このことは次郎に抑え切れない嫉妬心を起こさした。
(恭一は、毎日お浜に逢って、頭を撫でて貰ったり、やさしい言葉をかけて貰ったりしているのだ。)
 そう思うと、次郎の頭はかっとなる。何とかして、恭一が学校に行くのを邪魔してみたいものだと思う。
 ある晩、とうとう彼は一計を案じ出した。
 翌朝起きるとすぐ、彼は、恭一の学用品を入れた雑嚢《ざつのう》を抱えて、こっそり便所に行った。そして、大便をすますついでに、それを壺の中に放りこんでしまったのである。
 放りこむまでは、彼は冒険家が味わうような一種の興奮を覚えていた。しかし雑嚢がどしんと壺の中に落ちた瞬間、彼は取りかえしのつかないことをしてしまったと思った。そして、時がたつにつれて、発覚の心配がひしひしと彼の胸に食い入って来た。
 彼は胸の底に、かつて経験したことのない一種の心細さを覚えた。
 彼は、恭一が朝飯を食っている間に、一枚の古新聞紙を懐《ふところ》にして便所につづく廊下を何度もうろうろした。そして、あたりに気を配りながら、もう一度中に這入って、懐から新聞紙を取り出し、それを拡げて雑嚢の上に落した。
 それからあと、彼は落ちつき払って朝飯を食った。朝飯がすむと、裏の小屋に行って、直吉が薪《まき》を割っているのを、面白そうに眺めていた。
 ものの三十分も経ったころ、だしぬけに、母屋の方から恭一の泣き叫ぶ声がきこえて来た。お民の鋭い声がそれにまじった。つづいてお糸婆さんが、あたふたと裏口からこちらに走って来るのが見えた。
「どうしたんかね、次郎ちゃん。」と直吉が言った。
「どうしたんかね。」と、次郎も同じことを言いながら、袖口で鼻をこすった。それから、散らかった薪を拾っては、すでに隅の方に整理されている薪の上に積みはじめた。
「恭さんの学校道具を知りませんかな、次郎ちゃん。」
 と、お糸婆さんが、小屋の入口から、せきこんで声をかけた。
「知らんよ。」
 と、次郎は、薪を積むのに忙しい、といったふうを装った。
「恭さんは、ちゃんといつもの所に置いたと言いますがな。」
「僕知らんよ。」
「知っとるなら知っとると、早く言って下さらんと、学校が遅うなりますがな。」
「僕知らんよ。」
「ほんとに知らんかな。」
「知らんよ。」
「そんならそれでいいから、とにかく、お母さんとこまでお出でなさいな。」
「やぁだい。」
「でも、お母さんが呼んどりますよ。」
 次郎はそう言われるのが一番いやだった。彼は、母の命令に対して正面から背《そむ》くだけの勇気がまだどうしても出なかっただけに、一層いやだったのである。
 彼は、しかし、仕方なしに、しぶしぶお糸婆さんに手を引かれながら、母屋《おもや》の方に行った。子供部屋では、お民が気違いのように、そこいらじゅうを引っかきまわして、雑嚢を探していた。
 そのそばで、恭一は足をはだけて、泣きじゃくっていた。
 お民は、次郎の顔を見るなり、例によって高飛車《たかびしゃ》にどなりつけた。
「次郎、早くお出し、どこへかくしたんだね。」
 次郎は、しかし、そうなるとかえって落ちついた。彼は徹頭徹尾とぼけ返って、「僕知らないよ」を繰《く》りかえした。
 捜索《そうさく》は、座敷や、茶の間や、台所にまで拡がっていった。しかし、幸いなことに、便所の中まで探して見ようとする者は、誰もいなかった。
 証拠があがらない限りは次郎の勝利である。嫌疑《けんぎ》がいかほど濃厚であろうと、それはかれの知ったことではない。
 時間は刻一刻と経った。彼はますます落ちついた。
 そして恭一は、本がなくては嫌だと言って、とうとうその日学校を休んでしまったのである。
 騒ぎがひととおり片づいてからも、重くるしい空気が永いこと家の中に漂った。
 お民は次郎の顔さえ見ると、ぐっと睨めつけた。そして、幾度となく離室に行ったり、台所に行ったりして、お祖母さんやお糸婆さんと、ひそひそ立ち話をした。恭一は、泣っ面をしながら、たえずその尻を追いまわしていた。
 次郎は、なるだけお民に近寄らない工夫をした。しかし、それとなくみんなの動静を窺うことを怠らなかった。とりわけ便所に出入りする人たちの顔つきに気をつけた。そしておりおりいやに狎々しい声で、恭一に話しかけたりした。
 夕食のあと、お民はもう一度念を押すように言った。
「次郎、ほんとうにお前知らないのかい。」
「僕知らないよ。」
 それから間もなく
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