も、顔を浸したままだと、一息に二間近くも進めるようになった。
「次郎、もう止せ。今日はそれでいい。この次には、きっと恭一よりうまく泳げるぞ。」
 俊亮は、次郎の物凄いねばりに、少なからず驚きながら、そう言って彼を制した。
 次郎は止すのがいささか不平だった。しかし、父が恭一をつれてさっさと土堤の方へ歩き出したのを見ると、彼も仕方なしにそのあとに蹤《つ》いた。

     *

 夕方の食卓には、珍しく家じゅうの顔が揃った。いつもは離室に膳を運ばせることにしている老夫婦までが、ひさびさでこちらに出かけて来た。この二人に俊亮夫婦、子供三人、それにお糸婆さんと直吉を合わせて都合九人が、風通しのいい茶の間に集まって、賑《にぎ》やかに食事をはじめた。
 食事中に俊亮は、今日の次郎の水泳ぶりを大|袈裟《げさ》に吹聴《ふいちょう》した。そして最後に、
「今日のようだと、次郎は何をやっても人に負けるこっちゃない。」
 そう言って愉快そうに次郎を顧みた。次郎は話の途中から、すっかり興奮しながらも、みんなのそれに対する受答えがどんなふうだか、知りたかった。彼は肴の骨をしゃぶりながら、始終盗むようにみんなの顔を見まわしていた。しかし彼は、予期に反して、誰からも彼の満足するような言葉を聞くことが出来なかった。
 お祖父さんは、始めから終りまで、無表情な顔をして「ほう、ほう」と言っているだけだった。お祖母さんは、たえず何かほかの話をしかけては、みんなの注意をかきみだした。お民は最後まで熱心に耳を傾けてはいたが、話が進むにつれて、むしろ不機嫌な顔つきになった。直吉は、次郎が水を呑んだ話のところで吹き出したきりだった。ただお糸婆さんだけが、
「まあ、次郎ちゃん、お偉いですね。」
 と言った。しかし、それも次郎の耳には、ほんの口先だけ俊亮にあいづちをうったものとしか聞えなかった。
 夕飯がすむと、間もなく俊亮は町にかえる支度をはじめた。
 次郎は妙に心が落ちつかなかった。で、すぐ表に飛び出して、父が出て来るのを三四町さきの曲り角にしゃがんで待っていた。日がちょうど落ちたばかりで、道はまだ十分に明るかった。
 父の自転車が、ごとごとと砂利道をころがって来るのを見ると、彼は立ち上って、
「父ちゃん!」と呼んだ。
「何だ、お前こんなところにいたのか。」
 俊亮は自転車をおりて、次郎の顔を無造作に撫でながら、
「もう六つ寝ると、また帰って来る。ひとりで大川に行くんじゃないぞ。父ちゃんがつれて行ってやるからな。」
 次郎は、ここで父を待っていたのが無駄ではなかったような気がして、嬉しかった。そして、父が再び自転車に乗って走って行く姿を、立ったまま永いこと見つめていた。

    九 雑のう

 夏が過ぎた。次郎がこの家に来てから、まだやっと一ヵ月そこそこである。しかし、彼はだいぶ新しい生活に慣れて来た。
 慣れて来たといっても、それは決して、彼の気持が愉快に落ちついて来た、という意味ではない。
 彼は、絶えず用心深く家の人たちの動静を窺《うかが》った。また彼らの言葉のはしばしから、すばしこくその心を読むことに努めた。その点では、彼は来た当座よりも、ずっと卑怯になったように思える。
 しかし、また考えようでは、恐ろしく大胆になったとも言える。彼は、露見の恐れがないという自信さえつけは、しゃあしゃあと嘘もつき、思い切っていたずらもやった。尤《もっと》も、盗み食いだけは、どんなにいい機会に恵まれても、湯殿での父の言葉を覚えていて、断じてやらないことにした。――彼は、父だけは欺いてはならないような気がしていたのである。
 時として彼は、母や祖母の前で、ことさら殊勝なことを言ったり、したりしてみせた。無論そんなことで、母や祖母が、心から自分に対して好意を寄せるようになるだろう、とは期待していなかった。しかし彼らを油断させる何かの足しにはなると思ったのである。
 もし、周到な用意をもって、大胆に事を行うということが、それだけで人間の徳の一つであるならば、彼は、こうした生活の中で、すばらしい事上錬磨をやっていたことになる。しかし、策略だけの生活から、必然的に育つものの一つに残忍性というものがあるのだ!
 次郎は、毎日庭に出ては、意味もなく木の芽を揉《も》みつぶした。花壇の草花にしゃあしゃあと小便をひっかけた。蜻蛉《とんぼ》を着物にかみつかせては、その首を引っこ抜いた。蛙を見つけては、遁《の》がさず踏み潰した。蛇が蛙を呑むのを、舌なめずって最後まで見まもり、呑んでしまったところをすぐその場で叩き殺した。隣の猫をとらえて、盥《たらい》をかぶせ、その上に煉瓦を三つ四つ積みあげて、一晩じゅう忘れていた。
 尤も、人間に対してだけは、彼は、それほどあからさまに残忍性を発揮することが出来なかっ
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