八 水泳

 翌日、俊亮は、早めに昼食をすますと、恭一と次郎をつれて大川に行った。ちょうど干潮時で、暗褐色の砂洲が晴れ渡った青空の下にひろびろと現れていた。
 三人は、喧《やかま》しく行々子《よしきり》の鳴いている蘆間《あしま》をくぐって、砂洲に出た。そして、しばらく蜆を拾ったり、穴を掘ったりして遊んだ。
 次郎は、のびのびした気分になって、砂の上に大の字なりに臥《ね》た。
 温かい砂の底からしみ出て来る水の感触が、何ともいえない好い気持である。きらきらと光って眼の上を飛んでいく蜻蛉《とんぼ》までが、今日は珍しい世界のもののように思える。
 彼はうっとりとなって、一心に青空を見つめた。するとそこに、ぼうっと黒ずんだ小さな影のようなものが現れた。お玉杓子の恰好をしている。それがすうっと空を動いては、どこかで消える。眼を据えるとまた現れる。彼は幾度となくその影を逐った。逐っているうちに、いつの間にか夢のようにお鶴の顔が浮き出して来た。
 彼は眼をつぶった。すると、お浜、お兼、勘作と、つぎからつぎへ、校番室の暗い部屋で親しんだ人達の顔が思い出されて来た。彼は、甘いような悲しいような気分にすっかりひたり切って、そばに父や兄がいることさえ忘れてしまった。
「さあ、これから泳ぐんだ。」
 俊亮は立ち上って砂の上に四股《しこ》を踏んだ。
「恭一は、もう随分泳げるだろうね。」
「まだ少しだよ。」
「父さんが見てやる。泳いでごらん。」
 恭一は、用心深そうに、そろそろ深みに這入って行った。そして、水が乳首の辺まで来たところで、彼は浅い方に向かってほんの一間ばかり、犬かきをやって見せた。
 次郎は熱心にそれを見つめていた。
「うむ、大ぶ上手になった……さあ今度は次郎だ。」
 次郎は、父の顔と水を見くらべながら、ちょっと尻ごみした。
「大丈夫だ。父さんが抱いてやる。」
 俊亮は、自分の両腕の上に次郎を腹這いさせて、ぐいぐいと深みにつれて行った。恐怖と安心とが、ごっちゃになって次郎の心を支配した。
「いいか、そうれ。……足をしっかり動かすんだ。手だけじゃいかん。……うむ。そうそう。……おっと、そう頭をもたげちゃ駄目だ。ちっとぐらい水をのんだって、死にゃせん。」
 俊亮はめっちゃくちゃに跳上る飛沫《ひまつ》を、顔一ぱいに浴びながら、そろそろと次郎の体を前進させてやった。次郎は一所懸命だった。そして非常に愉快でもあった。
 しかし、その愉快さは長くはつづかなかった。それは、俊亮がだしぬけに、彼の両手を次郎の腹からはずしてしまったからである。
 次郎は、はっと思った瞬間に、顔を空に向けたが、もう間にあわなかった。彼はがぶりと水を飲んだ。鼻の奥から頭のしんにかけて、酸っぱいものがしみ込むような痛みを感じた。それからあと、彼は全く死物狂いだった。
 しかし、その死物狂いは、ほんの一秒か二秒ですんだ。そこは彼の腰の辺までしかない深さのところで、彼はすぐひとりで立ち上ることが出来たからである。
「わっはっはっ、苦しかったか。」
 俊亮が、すぐうしろで大きく笑った。次郎は声をあげて泣きたかったが、父の笑い声をきくと泣けなくなった。で、げえげえ水を吐き出したり、鼻汁をこすったりして、しばらくごまかしていた。
「沈むと思った時に、口をあいて顔を上げたりしちゃいかん。思い切って、息を止めてもぐるんだ。いいか次郎。ほら、父さんがやってみせる。」
 俊亮は顔を水に突っこんで、そのでぶでぶした真っ白な体を、蛙のように浮かして見せた。
「どうだい。」
 と、彼は顔をあげて、それを両手でつるりと撫でながら、
「じっとしていりゃ、ひとりでに浮くだろう。浮いたら今度は手足を動かしてみるんだ。顔をあげるのは一等おしまいだよ。……どうだい、もう一度やってみるか。」
 次郎は、流石《さすが》にすぐ「うん」とは言わなかった。そして、父から五六間もはなれた、ごく浅いところに行って、ひとりで頻りに顔を水に突っこみはじめた。俊亮は砂に腰をおろして、にこにこ笑いながら、それを眺めていた。
 最初の間、次郎の息は三秒とはつづかなかったが、だんだんやっているうちに、それが五秒となり、七秒となり、とうとう十秒ぐらいまで続くようになった。
「父さん、僕一人でやってみるから、見ていてよ。」
 そう言って彼は、臍《へそ》ぐらいの深さのところまでゆくと、蛙のように四肢をひろげて、体を浮かす工夫をした。無論父ほどはうまくゆかなかったが、二三回でどうなり浮くだけの自信は出来たらしかった。それからあと、彼はしきりに手足を動かしたり、顔を水面にあげたりする工夫をやり出した。
 俊亮は、背中が真赤にやけるのも忘れて、三四十分間ほども、それを見まもっていた。
 次郎は、しかし、結局顔をあげて泳げるまでにはなれなかった。それで
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