と思うと、すぐそのあとで、子供の心を傷つけておしまいになるんですもの。」
「つまらん理窟を言うな。」
「貴方こそ屁理窟ばかりおっしゃってるんじゃありませんか。」
「いつ俺が屁理窟を言った。」
「ついさっきも、形よりは気持が大切だなんておっしゃったくせに。」
「それが屁理窟かい。」
「屁理窟ですわ。寄り添って来る自分の子を、汚ないなんて呶鳴りつけるような方が、そんなことおっしゃるんではね。」
「うむ……でも、俺には策略《さくりゃく》がないんだ。」
「おや、では私には策略があるとでもおっしゃるの。」
「あるかも知れないね。……しかし、俺はお前のことを言おうとしているんじゃない。」
 お民は歯噛みをするように、口をきりっと結んで、しばらく默っていたが、
「貴方は、策略さえ使わなければ、子供に対してどんなことを言ったり仕たりしてもいいとおっしゃるの。」
「心に本当の愛情さえあればね。」
「その愛情が貴方のはまるであてになりませんわ。」
「そうかね。だが、こんな話はあとにしよう。この子の前でこんなことを言いあうのは、よろしくない。お互の権威を落すばかりだからね。」
 お民は白い眼をして、ちらりと次郎を見たが、そのまま默ってしまった。俊亮は縁台をおりながら、
「それよりも、寝る前にもう一度行水をしたいんだが、湯があるかね。」
「風呂にまだ沢山残っていますわ。」
「そうか。――おい、次郎、お前も一緒に来い。父さんが綺麗に洗ってやる。」
 次郎は、聞いていて、何が何やらさっぱり解らなかった。ただ母が、自分のために父に対して抗議を申しこんだことだけが、たしかだった。かといって、彼はそのために父よりも母を好きになるというわけにはいかなかった。最初父に「汚ない」とどなられた時には、落胆もし、不平にも思ったが、二人の言いあいを聞いているうちに、やっぱり父の方に何か知ら温かいものがあるように感じた。で、父に「一緒に来い」と言われると、彼は何もかも打ち忘れて、はね起きる気になった。
 彼の心は、しかし、はね起きると同時にぴんと引きしまった。というのは、その時お民が縁側を上って行って、お膳をしまいかけたからである。
 次郎は卵焼のことが心配だった。もし母に気づかれたら、と思うと、彼は身動きすら出来なくなった。彼は、突っ立ってじっとお民の様子に注意した。
「おやっ。」
 お民は小声でそう叫ぶと、けげんそうに振り返って次郎の方を見た。次郎はしまったと思ったが、すぐそ知らぬ顔をして、眼をそらした。
「貴方、卵焼を残していらしったんでしょう。」
「うむ、残していたようだ。」
「それ、どうかなすったの。」
「どうもせんよ。」
「次郎におやりになったんではないでしょうね。」
「いいや……」
「どうも変ですわ。」
「卵焼ぐらい、どうだっていいじゃないか。」
 俊亮はちょっと首をかしげて次郎の顔を覗きながら言った。
「よかあありませんわ。」
 お民は冷やかにそう言って、また庭に下りた。
 そして、つかつかと次郎の前まで歩いて来ると、いきなりその両肩をつかんで、縁台に引きすえた。
「お前は、お前は、……こないだもあれほど言って聞かしておいたのに。……」
 お民は息を途切らしながら言った。
 次郎は、母に詰問されたら、父もそばにいることだし、素直《すなお》に白状してしまおうと思っていたところだった。しかし、こう始めから決めてかかられると、妙に反抗したくなった。彼は眼を据《す》えてまともに母を見返した。
「まあ、この子は。……貴方、この押しづよい顔をご覧なさい。これでも貴方は放っといていいとおっしゃるんですか。」
 お民の唇はわなわなとふるえていた。
 俊亮は、困った顔をして、しばらく二人を見較べていたが、
「お民、お前の気持はよくわかる。だが今夜は俺に任しとけ。……次郎、さあ寝る前に、もう一度行水だ。父さんについて来い。」
 そう言って彼は次郎の手を掴むと、引きずるようにして、庭からすぐ湯殿の方へ行った。
 湯殿に這入ってから、俊亮はごしごし次郎の体をこするだけで、まるで口を利かなかった。次郎は、すると、妙に悲しみがこみ上げて来た。そしてとうとう息ずすりを始めた。
 すると俊亮が言った。
「泣かんでもいい。だが、これから人が見ていないところでは、どんなにひもじくても物を食うな。その代り、人の見ている所でなら、遠慮せずにたらふく食うがいい。ねだりたいものがあったら、誰にでも思い切ってねだるんだ。いいか、父さんは意気地なしが大嫌いなんだぜ。」
 その夜、次郎は父のそばに寝た。無論寝小便も出なかったし、蚊にも刺されなかった。また、夜どおし父に足をもたせかけたりしたが、決して呶鳴られるようなことがなかった。彼はこの家に来て、はじめて本当の快い眠りをとることが出来たのである。

   
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