足した。
お民はまだ默っていた。次郎はいくぶんそれが気がかりだったが、
「そんなら僕行くよ」と、さっきからの自由さを失わないで答えた。
そして、自分の一言で、明日の計画にきまりがついた時に、彼はしばらくぶりで、お浜の家にいた頃のような気分を味わった。
間もなく俊亮は盃を伏せて、軽くお茶漬をかきこんだ。そして庭下駄を突っかけると、体操のような真似をしながら、縁台のまわりを、ぐるぐる歩きまわった。
「もっとお涼みになる?」
お民がやっと口をきいた。
「うむ、縁台に茣蓙《ござ》を敷いてくれ。」
お民が茣蓙を取りに奥に這入ると、恭一と俊三とはすぐそのあとを追った。次郎は、まだひとりで縁側に坐ったままでいたが、その時ふと彼の眼にしみついたのは、父のお膳に残された一切れの卵焼であった。
おおよそ次郎にとって、卵焼ほどの珍味は世界になかった。そして、お浜の家での彼の経験から、彼は、よほどの場合でないと、そんな珍味は口にされないものだと信じていた。ところがこの家では、お祖母さんが離室《はなれ》で、おりおり卵の壺焼をこさえては、おやつ代りに恭一と俊三とに与えている。現に、今日の昼過ぎにも、二人がそれを食べながら、離室を出て来るのに、次郎は廊下で出過《でっくわ》したのである。彼はその時、つとめて平気を装ったが、二人の口から、温かく伝わって来る卵焼の香気を嗅《か》がされた時には、自分だけをのけ者にしている祖母に対して、燃えるような憎悪を感じ、これから先、どんなことがあっても、離室の敷居はまたぐまい、と決心したほどであった。
その卵焼が、今彼の眼の前に、誰にも顧みられないで、冷たく皿の中にころがっている。彼は何としても自分を制することが出来なかった。
しかし、彼は手を伸ばす前に、先す茶の間の方を見た。母が出て来るにはまだちょっと間がありそうだった。それから、庭を歩きまわっている父を見た。父は丁度あちら向きになって歩き出したところである。
彼はすばやく卵焼を掴んで、口の中に押しこんだ。
「次郎、星が飛んだぞ。ほら。」
次郎は、だしぬけに父にそう言われて、飛び上るほどびっくりした。そして、父は何も知らないで遠くの空を見ているんだと解ってからも、思い切って卵焼を噛むことが出来なかった。
「うむ……」
彼は返事とも質問ともつかない妙な声を出した。そして、急いで縁先にうつ伏しになって、下駄を探すような恰好をしながら、忙しく口を動かした。
彼が下駄をはいて、父のそばに立った時には、彼はもうけろりとしていた。たった今、喉《のど》を通ったばかりの卵焼のあと味が、まだ幾分口の中に残っているのを楽しみながら、彼は神妙らしく、父が見ている空の方向に視線を注いだ。
そこへお民が茣蓙を運んで来て、それを縁台に拡げた。俊亮はすぐ、ごろりとその上に寝て団扇を使いはじめた。お民もその端に腰をおろしながら言った。
「次郎も、みんなと一緒に、就寝《やす》んだらいいじゃないの。」
次郎は不服らしい顔をした。すると俊亮が傍から言った。
「まだ眠くはないさ。早いんだから。」
「でも外の子はもう就寝みましたよ。」
「馬鹿に早いじゃないか。……次郎はもう少し父さんのそばで涼んでいけ。」
「まあ、大そう次郎がお気に入りですこと。……では、次郎ここに掛けて、父さんのお相手をなさい。」
次郎は最初遠慮がちに縁台に腰を下したが、間もなく父と三四寸の間隔をおいて、自分もごろりと横になった。彼はなぜか、父の真っ白な、ふっくらした裸に、自分の体をくっつけてみたくなった。彼の汗ばんだ体は、蚊にさされたところを掻くような恰好をしながら、じりじりと父にくっついて行った。
「汚ないっ。」
俊亮はだしぬけに、びっくりするような声で呶鳴りながら、はね起きた。――彼は鷹揚《おうよう》でなさけ深い性質に似合わす、一面神経質で潔癖なところがあり、他人の家で畳に手をついたりすると、帰ってから、何度も手を洗わないではいられない性質だった。
「どうなすったの。」
さっきから、それとなく次郎の様子を見守っていたお民が、いやに落ちついて訊ねた。
「次郎のべとべとする体が、だしぬけにさわったもんだから、びっくりしたんだよ。」
と、俊亮は、次郎に触《さわ》られた横腹のあたりを、団扇の先でしきりに撫でている。
次郎は、変に淋しい気がした。彼は寝ころんだまま、じっと眼を据えて父を見た。すると、お民が言った。
「まあ、貴方にも呆れてしまいますわ。」
「何が……」
「かりにも、自分の子が汚ないなんて。」
「汚ないものは、汚ないさ。」
「それでも親としての愛情がおありですの。」
「何を言ってるんだ。それとこれとは違うじゃないか。馬鹿な。」
「男の親というものは、それだから困りますわ。いやに可愛がっていらっしゃるか
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